2009年3月19日木曜日

池田勇作は当時「スポーツ」をどう視たか-その2

プロレタリア スポーツ
                 (二)

「ブルジョアスポーツの正体」
 一体ブルスポーツとはどんなものかと云うに、一寸考えると金持ドラ息連が、遊戯としてやって来たものの様に思える。勿論これもブルスポーツ(註1)であるが、然しそればかりではない。小学校、中学、高等学校、大学其他実業学校等のスポーツは皆ブルスポーツであり、労働者のやって居るのでさえもブルスポーツがある。此処が一番大切な処だ。近来支配階級は盛んにスポーツを宣伝し、工場などでも道具を与えて野球なんかやらせて居るものが相当多い。然し、吾々の為には一銭だって多く出そうとしないばかりか、不服を云えば、遠慮なく馘にしてしまう支配階級が、何故高い金で運道具を買ってあたえるのであるかと考える必要があるのだ。彼ら支配階級は道具を与えてスポーツをやらせたりして、労働者や農民の不平を忘れさせ様とする意図である事を見抜かねばならない。例えば、何々工場野球団なんて云う奴を造って社長が会長で、盛んに野球をやらせる。そして、一番上手な奴には特に報酬を与えたりして、「野球さえうまくやれば幾らでも給料を上げてやる。だから不平なんぞ云はないで野球でも一生懸命やれ!」と云はぬばかりだ。俺達はこんな手管にダマされてはならない。こんなブルスポーツを粉砕して、吾々の自主的な、一人や二人の上手な奴を作る為でなく。労働者農民の団結を一層固くする為のスポーツ団を作らねばならないのだ。
 次に、ブルスポーツを良くバクロして居る一、二の例を上げて見よう。昨年あたり、慶大の名投手を××会社で雇い入れる為に二十人の職工を馘にしたと云う事実があった。こんな選手一人の為に労働者が二十人も馘になる。それに宮武(註2)の給料は三百円とか五百円(註3)とか云う。次に極く最近の話だが、山形県下の労働者、農民の勇敢な働き手が奪われた時(註4)、誰だったか偉い方(?)が、こう云う事を防ぐにはスポーツを盛んにするに限ると云って居った。
 之で見ても新聞紙上彼等の魂胆はスポーツで労働者農民の激しい奴等への憎しみをまぎらはせようとして居る事がハッキリ解るではないか?
                     (つづく)

註1:ブルジョアの略称としてよく使われる。例:商業新聞を「ブル新」と呼ぶ
註2:昭和初期に六大学で大活躍した宮武三郎のこと。慶応大野球部の第一期黄金時代を水原茂、三原脩とともに作り上げた名投手で強打者でした。卒業後は「東京倶楽部」を経て出来たばかりのプロ球団阪急に入団し大活躍した人物です。
註3:当時の労働者はこの十分の一から二十分の一程度の給料でした。
註4:昭和6年には、2月に山形県北村山郡小田島村で小作争議があり総計150名を越す逮捕者を出した「小田島事件」と8月には池田勇作と深い親交のあった「平沢文四郎」ら24人が検挙される「左翼文化活動グループ事件」がある。また、12月には佐久間次良ら11名が「全農全国会議山形評議会共産党事件」などがあります。池田勇作がここで例に」挙げた事件は恐らく平沢らの左翼文化活動グループの検挙をいったものと思われます。

2009年3月11日水曜日

池田勇作は当時「スポーツ」をどう視たか-その1

                                                                                   




















「荘内春秋」新聞の昭和7年3月15日発 行(第7号)に池田祐策名で発表した池田勇作の、当時鶴岡でも非常に関心が持たれていた野球というスポーツについての、啓蒙記事をご紹介します。「野球」はイギリスの「タウンボール」という遊びがアメリカで変化・発展して1842年統一ルールが作られて全米に広がった、といわれています。日本には1871年(明治4)に旧制第一高校(現東京大学)に赴任したアメリカ人教師が広げた。昭和7年(1932)当時は、プロ球団は無い時代で、東京6大学リーグがラジオ放送を通して日本中を沸かせていました。鶴岡では旧制中学の対抗試合が市民の注目を集め、特に鶴岡中学(現鶴岡南高校)と鶴岡工業専門学校(現鶴岡工業高校)の対抗戦に人気が集まったといいます。全国的に野球の人気は高まる一方でしたが、町の空き地で、あるいは公園で普通に子どもたちが、また職場の労働者がキャッチボールをしたりバッティング楽しむ姿はありませんでした。野球だけでなく、例えばスキーなども都会の学生など限られた人間(ヒッコリーの高級な板スキーなどを持てる階級の)のスポーツでした。雪だらけの鶴岡でも、子どもたちは下駄スキーで遊びますが、多くの人たちには雪は生活の邪魔者に過ぎない存在でしかなかったのです。そこで、池田勇作の問題提起を、当時のこうした状況を背景として頭に浮かべながら、聞いてみましょう。今回を入れて3回に渡ってお届けします。例によって、是非感想・質問などお願いします。

プロレタリア スポーツ                     池田 祐策

                (一)
 だんだん暖かくなると、彼方此方で、白いユニホームが眼につく。
「打ちました打ちました打ちました、ヒット、ヒット、遊撃手の頭上を抜くヒット、レフト懸命に駆けて居ります・・・・。」ラジオの野球放送が始まると、四十がらみの大人迄立ち聞きをして居る。小僧さんなどは、主人の使いも忘れて、自転車を止めて、聞き入って居る姿を随分見受けられる。

 「スポーツをやって来た人達はどんな人々か」
 この様に面白く、愉快なスポーツをやって来た人はどんな人達か。先ず第一に、スポーツをやるには金がかかる。殊に野球などは一揃い、安く見て、八九十円から百円(註:約十万円ほど)はかかる。其他の、スポーツにした処で、夫々相當の金が必要だ。此の点殻見ても、金のないものは、スポーツはやれないと云う事になる。
 其上、労働者や農民(小作人)には、スポーツをやる丈の時間がない。工場では、早朝から夜おそく迄労働を強いられ、農民は終日働かねば、(作った米の五割、六割を地主に納めなければならないので)生活が出来ない。
 縦令(註:たとい)、日曜の休みがあっても此頃の労働強化に、體(註:からだ)は綿の様に疲れ切って居る。スポーツをやるより、ゆっくり休んだ方が良いと云うことになる。それで今迄は、殆ど、中産階級以上の人達に依って、独占されて来た。金持ちの息子達(主に学生)が、自分達の特権物の様な面をしてやって来た。

 「スポーツは労働者農民に許されないか?」
 それなら、スポーツは金持ちの息子達にのみ許されて、労働者農民には許されない、ものであろうか?若しそうであったならば、スポーツと云う形式が矛盾したものとなる。労働者、農民だって、スポーツをやり度(註:た)い。
 他の者がやって居るのを見たり、ラジオで聞いたりすると、腕が鳴って来る。――おいらだって、ホームラン位い、カッ飛ばせるぞ。全くだ。労働者や農民の、鉄の腕で打ったら、球が、すごいスピードで飛ぶだろう。殊に、體の不均等に発達し易い終日くらい誇りだらけの工場に、おし込められて居る、労働者等に取っては最も必要であるのだ。其処で、近頃は工場等にみ、職工が積極的にスポーツ団を作り出した。ブルジョアの独占や幾多の悪条件をヶ飛ばしながら……

(第1回:昭和7年3月15日付発表記事)

2009年3月3日火曜日

お知らせ

今回は「荘内春秋」新聞の昭和7年に載せた「プロレタリア スポーツ」記事の予定でしたが、現在娘夫婦が二人の可愛い孫を連れて里帰り中で、孫と娘が可愛くて外に何も出来ない状態。そんな訳で、来週半ばまでお休みを下さい。3月12日に活動再開します。どうぞ、お許し下さい。