2009年4月19日日曜日

池田勇作は当時「スポーツ」をどう視たか-その3

ちょっと小忙しくてプロレタリアスポーツ(三)のお披露目が遅れてしまいました。お待ちの方もおられたと、思いたいのです、考えると申し訳なくて。ところで、今回の(三)には伏字がいくつかあります。どうも自信がなくて解説できません。何方か答えをお聞かせ下さい。


   プロレタリアスポーツ  (三)            池田祐策

 さてブルジョアスポーツの正体が大体解った。そして、これと対立するプロレタリアスポーツの存在が、当然でもあるし、又社会的存在の必然性も此処にあるのだ。
 恰もブルジョアジーが発生すると同時にプロレタリアートが存在したように――然るに吾々は現在迄余にプロレタリアスポーツの確立に無関心すぎて居た。今や満州に於ける○○ブルジョアジーの××××を契機として、全文化はことごとく急激に反動化した(註:○○、××××の伏字は解りません。何方か教えて下さい)。ラジオ、出版物、映画、演劇、其他の文化団体は、全く、文字通り滅茶苦茶に××を宣伝し、大衆に好戦心を強いて居る(註:××の伏字は何でしょう)。これは実に、資本主義それ自身の内包する矛盾に依る崩壊せんとする断末魔の醜いアガキである事は見逃してならないし、それ等への精力的な抗争を続けねばならないのだ。
「赤い思想を防ぐのは、スポーツを盛にやらせる事だ」と幾度お偉い(?)方々に依って言われて来た事か、又今後も増々云うであろうし、ブルジョアスポーツの陣営は拡大されるだろう。その中に吾々はハッキリとブルジョア制度の××(註:崩壊か?)が増々切迫した事を認識するばかりでなく、積極的な攻勢に出なければならない。
 工場農村を中心とした自主的スポーツ団の確立、これは芸術(文芸、演劇、映画、美術、音楽等)サークルと同じ様に、スポーツ愛好者の間に当然に組織されねばならない。現在程此の事が強調された事は今迄にない。
 そこで、スポーツサークルの問題であるが、細かに述べる紙数を持たないからあらましを述べよう。
 此のスポーツサークルを工場農村を中心として作る事は勿論であるが、吾々は運道具や時間等で苦しまねばならないし、之を如何に解決するかが問題だ。先ずスポーツをやろうと云う人達が出来たら、その人達が中心となって運道具や、時間を与えろと会社や(地主が支配している)役場に向かって要求する。此の場合数人で要求したんでは駄目だから、出来るだけ多くの人を集める。場合に依っては、経済的な要求と結びつけてやるのも効果的だろう。
 こうして兎にかく困難であるが、要求が通ると、資本家や地主は、すぐ、此のことを恩にきせて来るであろうが、之に絶対にダマされてはならない。何処までも自主的にやって行くべきだ。
 このようにして吾々はスポーツサークルを広汎に作って行かねばならない。
 今年の七月に、アメリカのロスアンゼルスで世界の資本家達の催しでオリンピックがある。日本からも選手が政府の金で行くだろう。然しこの大会にはロシアの選手は参加出来ないのだ。それでもわかる様に此のオリンピックは労働者農民の為の催しでは決してないのだ。
 そこで、此のオリンピックに反対して、真に労働者農民のオリンピックを開こうとアメリカの労働者の提唱に依って国際労働者競技大会を開く事となり、
▽ 労働者農民に運動体育の自由を与えろ!
▽ 学校、教育の運動設備を労働者に無料で解放しろ!
▽ 当局の費用負担で労働者農民居住地域に体育設備を増設しろ!
▽ 資本家の国際オリンピック反対!
▽ ソビエート同盟××反対!
▽ 国際労働者協議大会万歳!
のスローガンをかかげて、ソビエート同盟、ドイツ、フランス、日本、中国等世界各国の労働者農民の参加を希望して居る。
 この催しを契機として、吾が国に於けるプロレタリアスポーツの立ち遅れを批判すると同時に立ち遅れ克服への新しい道を打ち建てねばならない
                                     (終)

 これで三回に渉って公開しました池田勇作のスポーツ論を終わります。当時の世界のスポーツ事情もわかりましたし、現代にも通じるところがたくさんあったんだ、とも思いました。
 次回からは「時代」という雑誌(これは昭和8年にかれの友人。梅木米吉と荘司徳太郎の3人で創刊した文学雑誌です。今後もう少し詳しく紹介します)に載せた自伝的小説の「少年」を数回に分けてお読みいただきます。お楽しみ下さい。

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