2009年4月19日日曜日

池田勇作は当時「スポーツ」をどう視たか-その3

ちょっと小忙しくてプロレタリアスポーツ(三)のお披露目が遅れてしまいました。お待ちの方もおられたと、思いたいのです、考えると申し訳なくて。ところで、今回の(三)には伏字がいくつかあります。どうも自信がなくて解説できません。何方か答えをお聞かせ下さい。


   プロレタリアスポーツ  (三)            池田祐策

 さてブルジョアスポーツの正体が大体解った。そして、これと対立するプロレタリアスポーツの存在が、当然でもあるし、又社会的存在の必然性も此処にあるのだ。
 恰もブルジョアジーが発生すると同時にプロレタリアートが存在したように――然るに吾々は現在迄余にプロレタリアスポーツの確立に無関心すぎて居た。今や満州に於ける○○ブルジョアジーの××××を契機として、全文化はことごとく急激に反動化した(註:○○、××××の伏字は解りません。何方か教えて下さい)。ラジオ、出版物、映画、演劇、其他の文化団体は、全く、文字通り滅茶苦茶に××を宣伝し、大衆に好戦心を強いて居る(註:××の伏字は何でしょう)。これは実に、資本主義それ自身の内包する矛盾に依る崩壊せんとする断末魔の醜いアガキである事は見逃してならないし、それ等への精力的な抗争を続けねばならないのだ。
「赤い思想を防ぐのは、スポーツを盛にやらせる事だ」と幾度お偉い(?)方々に依って言われて来た事か、又今後も増々云うであろうし、ブルジョアスポーツの陣営は拡大されるだろう。その中に吾々はハッキリとブルジョア制度の××(註:崩壊か?)が増々切迫した事を認識するばかりでなく、積極的な攻勢に出なければならない。
 工場農村を中心とした自主的スポーツ団の確立、これは芸術(文芸、演劇、映画、美術、音楽等)サークルと同じ様に、スポーツ愛好者の間に当然に組織されねばならない。現在程此の事が強調された事は今迄にない。
 そこで、スポーツサークルの問題であるが、細かに述べる紙数を持たないからあらましを述べよう。
 此のスポーツサークルを工場農村を中心として作る事は勿論であるが、吾々は運道具や時間等で苦しまねばならないし、之を如何に解決するかが問題だ。先ずスポーツをやろうと云う人達が出来たら、その人達が中心となって運道具や、時間を与えろと会社や(地主が支配している)役場に向かって要求する。此の場合数人で要求したんでは駄目だから、出来るだけ多くの人を集める。場合に依っては、経済的な要求と結びつけてやるのも効果的だろう。
 こうして兎にかく困難であるが、要求が通ると、資本家や地主は、すぐ、此のことを恩にきせて来るであろうが、之に絶対にダマされてはならない。何処までも自主的にやって行くべきだ。
 このようにして吾々はスポーツサークルを広汎に作って行かねばならない。
 今年の七月に、アメリカのロスアンゼルスで世界の資本家達の催しでオリンピックがある。日本からも選手が政府の金で行くだろう。然しこの大会にはロシアの選手は参加出来ないのだ。それでもわかる様に此のオリンピックは労働者農民の為の催しでは決してないのだ。
 そこで、此のオリンピックに反対して、真に労働者農民のオリンピックを開こうとアメリカの労働者の提唱に依って国際労働者競技大会を開く事となり、
▽ 労働者農民に運動体育の自由を与えろ!
▽ 学校、教育の運動設備を労働者に無料で解放しろ!
▽ 当局の費用負担で労働者農民居住地域に体育設備を増設しろ!
▽ 資本家の国際オリンピック反対!
▽ ソビエート同盟××反対!
▽ 国際労働者協議大会万歳!
のスローガンをかかげて、ソビエート同盟、ドイツ、フランス、日本、中国等世界各国の労働者農民の参加を希望して居る。
 この催しを契機として、吾が国に於けるプロレタリアスポーツの立ち遅れを批判すると同時に立ち遅れ克服への新しい道を打ち建てねばならない
                                     (終)

 これで三回に渉って公開しました池田勇作のスポーツ論を終わります。当時の世界のスポーツ事情もわかりましたし、現代にも通じるところがたくさんあったんだ、とも思いました。
 次回からは「時代」という雑誌(これは昭和8年にかれの友人。梅木米吉と荘司徳太郎の3人で創刊した文学雑誌です。今後もう少し詳しく紹介します)に載せた自伝的小説の「少年」を数回に分けてお読みいただきます。お楽しみ下さい。

2009年3月19日木曜日

池田勇作は当時「スポーツ」をどう視たか-その2

プロレタリア スポーツ
                 (二)

「ブルジョアスポーツの正体」
 一体ブルスポーツとはどんなものかと云うに、一寸考えると金持ドラ息連が、遊戯としてやって来たものの様に思える。勿論これもブルスポーツ(註1)であるが、然しそればかりではない。小学校、中学、高等学校、大学其他実業学校等のスポーツは皆ブルスポーツであり、労働者のやって居るのでさえもブルスポーツがある。此処が一番大切な処だ。近来支配階級は盛んにスポーツを宣伝し、工場などでも道具を与えて野球なんかやらせて居るものが相当多い。然し、吾々の為には一銭だって多く出そうとしないばかりか、不服を云えば、遠慮なく馘にしてしまう支配階級が、何故高い金で運道具を買ってあたえるのであるかと考える必要があるのだ。彼ら支配階級は道具を与えてスポーツをやらせたりして、労働者や農民の不平を忘れさせ様とする意図である事を見抜かねばならない。例えば、何々工場野球団なんて云う奴を造って社長が会長で、盛んに野球をやらせる。そして、一番上手な奴には特に報酬を与えたりして、「野球さえうまくやれば幾らでも給料を上げてやる。だから不平なんぞ云はないで野球でも一生懸命やれ!」と云はぬばかりだ。俺達はこんな手管にダマされてはならない。こんなブルスポーツを粉砕して、吾々の自主的な、一人や二人の上手な奴を作る為でなく。労働者農民の団結を一層固くする為のスポーツ団を作らねばならないのだ。
 次に、ブルスポーツを良くバクロして居る一、二の例を上げて見よう。昨年あたり、慶大の名投手を××会社で雇い入れる為に二十人の職工を馘にしたと云う事実があった。こんな選手一人の為に労働者が二十人も馘になる。それに宮武(註2)の給料は三百円とか五百円(註3)とか云う。次に極く最近の話だが、山形県下の労働者、農民の勇敢な働き手が奪われた時(註4)、誰だったか偉い方(?)が、こう云う事を防ぐにはスポーツを盛んにするに限ると云って居った。
 之で見ても新聞紙上彼等の魂胆はスポーツで労働者農民の激しい奴等への憎しみをまぎらはせようとして居る事がハッキリ解るではないか?
                     (つづく)

註1:ブルジョアの略称としてよく使われる。例:商業新聞を「ブル新」と呼ぶ
註2:昭和初期に六大学で大活躍した宮武三郎のこと。慶応大野球部の第一期黄金時代を水原茂、三原脩とともに作り上げた名投手で強打者でした。卒業後は「東京倶楽部」を経て出来たばかりのプロ球団阪急に入団し大活躍した人物です。
註3:当時の労働者はこの十分の一から二十分の一程度の給料でした。
註4:昭和6年には、2月に山形県北村山郡小田島村で小作争議があり総計150名を越す逮捕者を出した「小田島事件」と8月には池田勇作と深い親交のあった「平沢文四郎」ら24人が検挙される「左翼文化活動グループ事件」がある。また、12月には佐久間次良ら11名が「全農全国会議山形評議会共産党事件」などがあります。池田勇作がここで例に」挙げた事件は恐らく平沢らの左翼文化活動グループの検挙をいったものと思われます。

2009年3月11日水曜日

池田勇作は当時「スポーツ」をどう視たか-その1

                                                                                   




















「荘内春秋」新聞の昭和7年3月15日発 行(第7号)に池田祐策名で発表した池田勇作の、当時鶴岡でも非常に関心が持たれていた野球というスポーツについての、啓蒙記事をご紹介します。「野球」はイギリスの「タウンボール」という遊びがアメリカで変化・発展して1842年統一ルールが作られて全米に広がった、といわれています。日本には1871年(明治4)に旧制第一高校(現東京大学)に赴任したアメリカ人教師が広げた。昭和7年(1932)当時は、プロ球団は無い時代で、東京6大学リーグがラジオ放送を通して日本中を沸かせていました。鶴岡では旧制中学の対抗試合が市民の注目を集め、特に鶴岡中学(現鶴岡南高校)と鶴岡工業専門学校(現鶴岡工業高校)の対抗戦に人気が集まったといいます。全国的に野球の人気は高まる一方でしたが、町の空き地で、あるいは公園で普通に子どもたちが、また職場の労働者がキャッチボールをしたりバッティング楽しむ姿はありませんでした。野球だけでなく、例えばスキーなども都会の学生など限られた人間(ヒッコリーの高級な板スキーなどを持てる階級の)のスポーツでした。雪だらけの鶴岡でも、子どもたちは下駄スキーで遊びますが、多くの人たちには雪は生活の邪魔者に過ぎない存在でしかなかったのです。そこで、池田勇作の問題提起を、当時のこうした状況を背景として頭に浮かべながら、聞いてみましょう。今回を入れて3回に渡ってお届けします。例によって、是非感想・質問などお願いします。

プロレタリア スポーツ                     池田 祐策

                (一)
 だんだん暖かくなると、彼方此方で、白いユニホームが眼につく。
「打ちました打ちました打ちました、ヒット、ヒット、遊撃手の頭上を抜くヒット、レフト懸命に駆けて居ります・・・・。」ラジオの野球放送が始まると、四十がらみの大人迄立ち聞きをして居る。小僧さんなどは、主人の使いも忘れて、自転車を止めて、聞き入って居る姿を随分見受けられる。

 「スポーツをやって来た人達はどんな人々か」
 この様に面白く、愉快なスポーツをやって来た人はどんな人達か。先ず第一に、スポーツをやるには金がかかる。殊に野球などは一揃い、安く見て、八九十円から百円(註:約十万円ほど)はかかる。其他の、スポーツにした処で、夫々相當の金が必要だ。此の点殻見ても、金のないものは、スポーツはやれないと云う事になる。
 其上、労働者や農民(小作人)には、スポーツをやる丈の時間がない。工場では、早朝から夜おそく迄労働を強いられ、農民は終日働かねば、(作った米の五割、六割を地主に納めなければならないので)生活が出来ない。
 縦令(註:たとい)、日曜の休みがあっても此頃の労働強化に、體(註:からだ)は綿の様に疲れ切って居る。スポーツをやるより、ゆっくり休んだ方が良いと云うことになる。それで今迄は、殆ど、中産階級以上の人達に依って、独占されて来た。金持ちの息子達(主に学生)が、自分達の特権物の様な面をしてやって来た。

 「スポーツは労働者農民に許されないか?」
 それなら、スポーツは金持ちの息子達にのみ許されて、労働者農民には許されない、ものであろうか?若しそうであったならば、スポーツと云う形式が矛盾したものとなる。労働者、農民だって、スポーツをやり度(註:た)い。
 他の者がやって居るのを見たり、ラジオで聞いたりすると、腕が鳴って来る。――おいらだって、ホームラン位い、カッ飛ばせるぞ。全くだ。労働者や農民の、鉄の腕で打ったら、球が、すごいスピードで飛ぶだろう。殊に、體の不均等に発達し易い終日くらい誇りだらけの工場に、おし込められて居る、労働者等に取っては最も必要であるのだ。其処で、近頃は工場等にみ、職工が積極的にスポーツ団を作り出した。ブルジョアの独占や幾多の悪条件をヶ飛ばしながら……

(第1回:昭和7年3月15日付発表記事)

2009年3月3日火曜日

お知らせ

今回は「荘内春秋」新聞の昭和7年に載せた「プロレタリア スポーツ」記事の予定でしたが、現在娘夫婦が二人の可愛い孫を連れて里帰り中で、孫と娘が可愛くて外に何も出来ない状態。そんな訳で、来週半ばまでお休みを下さい。3月12日に活動再開します。どうぞ、お許し下さい。

2009年2月23日月曜日

農民は何を叫んだ! (「荘内春秋」新聞投稿記事)

                                                                 旬刊新聞の「荘内春秋」
が発刊されたのは昭和7
年1月15日でした。      
勇作はこの時18歳ですが編集助手として入社。以後次々と記事を書き続けます。この年5月にはメーデーで活躍し、ついに発行者小澤浩の新聞を去ります。上の写真は記念すべき第一号、右は第7号(3月15日発行)に出た「農民は何を叫んだ!」の記事。なお、この新聞は鶴岡在住の詩人で著名な畠山弘さんが「こんな新聞があるよ」と見せてくださったものです。そこには、池田勇作の活動の出発点が見事に残されていて、大変貴重な発見となりました。感謝。




     農民は何を叫んだ!……東郡弁論会批判         牧本 進 


去る十三日庄農講堂で行われた、東郡聯合青年団弁論会を聴いた。此の農村青年の叫びにたいする感想、批判を述べてみよう。

(註:「庄農」は庄内農業学校のことで現庄内農業高等学校。
「東郡」は東田川郡の略称)

 先づ第一に、主催側の青年に与えた題目をみると次の如くであった。
甲、我等の青年団は斯くありたい。
乙、現下の農村に於いて憂うべきもの。
丙、日支問題と我等青年。
 此の題目は何れも、現下の農村青年に取っては現実的な問題であり、主催者側の意図であろう処の農村青年の思想を聴くには充分な題目と云えよう。
 此の題目の中、乙丙が各拾名で、甲が四名であったが、此の小さい統計の中にも、好戦国民になれ!との支配階級のアジプロが、効果を挙げて居る事実が覗(読み:ウカガウ)われる。そして、此の、丙の問題に対する農村青年の叫びは、何れを取っても新聞記事的戦況報告、及び、支配階級のアジプロに対する、青年的な軽薄な興奮以上に一歩も出て居ないことである。

(註:「日支問題」は日本の支那つまり当時の中華民国に対する侵略戦争=1931年9月18日に鉄道爆破を引き金に引き起こした、所謂「満州事変」についてという意味。なお、支那という呼び名は欧米が中国を秦国に由来のchinaと呼称したのを当時の日本は利用して属国扱いの漢字名で呼称していた。当然のことではあるが、敗戦以降は使わない。いや、使うことを許してはならない。
「アジプロ」はアジテーションとプロパガンダの合成略語で煽動・宣伝の意)

 今や日支戦争を、吾々は、生活の苦しさ、世界的恐慌と切り離して考えることは絶対に不可能であり、根本的な間違いである。然るに、此の問題を取り上げた弁士達は、何れも、全く勇敢にも、現在の農村恐慌と全々切り離して此の事を問題にして居るのだ。
 例えば、苦しい小作の生活の中から、戦争に動員されて行く兵士の事、働き手を奪われた家族の増々苦しい生活、等に対しては一言も触れて居ないし、此度の戦争が、如何なる世界的情勢の下に、如何なる意図を現すものであるか等を深く突込んで批判して居る者も見当らなかった。

 (註:「小作」とは地主から耕作地を借り、小作料(収穫の4割前後)を払ってその土地を自分で耕し、農業を営むこと。また、その人。戦前は一握りの大地主がいて、農民の大部分は小作で、生きるか死ぬかの貧乏生活を強いられていた。)

 乙の問題も、前の如く、戦争と切り離し、単に独立した問題として取り扱って居る処に大きな間違いがある。
 又、東北、北海道の飢餓に対して同じ農民として言及した者は唯一名にすぎなかった。そして大部分は、現在の農民の窮迫、その打開策を抽象的、概念的に取り扱っている。吾々は苦しい、吾々は起たねばならぬ等の言葉を朗読するに過ぎなかった。そして、何の為に農民(主に小作)は苦しいのか、どうして凶作は起きたか?等を具体的に取り上げて、それを打開するにはどうすれば良いかと云う事を全々考えて居ない(封建的地主制度、それを存続せしめ様とするブルジョアジーの政策を××しなければならないのだ)。

  (註:××の伏字は「打破」とか「排除」などが考えられる)

 甲の問題に対しても全く同じだ。
 そこで吾々は、この弁論会に於ける弁士の叫びが果たして農民(地主以外の)自身の叫びであったかと云う事を考えなければならない。
 第一に弁士の過半数は、自作農以上の者ばかりで、此の弁論会が極度に抑圧されたもので農民の自主的な会でない。農民の真の叫びは意識的に弾圧されるのだ。その為に、これ等の叫びは、真の農民のではないのだ。然し、単に農民の真の叫びでないからと放棄することは出来ない。吾々は如何に反動文化(雑誌、ラジオ、映画、劇)のアジプロが農村青年を害して居るかと云う一面を見落としてはならないのだ。そして、之等の反動文化の影響から農民を引き離して吾々の正しい文化を押し進めねばならない。それは唯、反動文化との決定的な闘争に依ってのみ可能である事を知らねばならぬ。
                                                         (完)

 これが18歳の若者の記事なのですから驚きです。最後のところで、プロレタリア文化運動で「闘争」し封建的地主制度から小作農を解放しようとする想いが打ち出されていて感動さえします。
 次回は、やはり「荘内春秋」からスポーツの階級性についての啓蒙記事をご紹介します。

2009年2月17日火曜日

お知らせ(2009.02.17)

「池田勇作」に関する調査で明日から数日の間旅に出ることをお許しください。来週の月曜日(2月23日)に新聞への投稿記事「農民は何を叫んだ! ・・・・ 東郡弁論会批判」をお伝えしたいと考えています。この牧本進名の作品は既刊の「魂の道標へー池田勇作と郁の軌跡」にも記載されていないものです。ご期待ください。

2009年2月10日火曜日

小説「女工」-その2

 註 「荘内新報」昭和8年3月21日付の記事:愛国山形号という戦闘機を二機
も労働者に、税金以外にも国の戦争遂行に協力させるために「山形」でも岩手
や 福島、全国どこでもやったように「軍用機を県民の力で寄付で買って天皇の
軍隊 で使ってもらおう」という官製の声を作り上げこれに応じないものは非国
民呼ば わりして労働者のなけなしの給料から更に収奪を強行し、上の新聞に
よれば十 万円(約1億円相当か)以上集めて二機買い求めたのであった。
 それでは、小説「女工」の続きをお読みください。

   (二)

 午後の工場は操音をぬう様に「愛国山形号」(註:上の新聞記事参照)の話が
飛び散って居た。
 みんなは汗をふきふき手を休めづに口から泡をとばした。山中から出て来た豊
乃と云う十七になったばかりの娘は、口を蛸の様にとげて、得意になって叫んで
居た。
「飛行機二台、くッどオー。ちうげえりや、きのはげえすもすッどオーやアー。すん
ぶんさ、けえであったどうオー。」
 そして「オッととど」と、あわててハタを止めた。
 子持ちの年寄達は学校で子供等が「愛国山形号万才」と字のかっこうに列を
造 るそうだと云うことや、何処の町会では幾ら寄付したとか、「今間様」(註:鶴
岡にあった農機具メーカーの前身今間機械の社長)では千 円(註:約百万円
相当であろう)も寄 付したとか云うことを、自分のことの様な顔で話し合った。
そんな話は お終い迄行 かないで、きっと途切れた。その度にハタが止った。
 マサ江はお昼前よりも一層苦しかった。体が苦しくなると盛に糸が切れた。
夢中 でギアーを引いて、指先をなめては糸を結ぼうとするが、糸がボヤケて思
う様に ならなかった。いらいらして唇をぎっと噛むが糸が十本にも二十本にも
見えた。 「あさ」にはしよっちゅう新しい「くだ」を入れ替えねばならなかった。そ
れが三台 だから堪らない。一台を結んで居るうちに次の奴が切れたのを知ら
ずに居ると、 せっかく織れたのを、丹念にほぐして結ばねばならなかった。そ
んな時には「此の まま倒れてしまった方がいい。」とも思ったりしたが、フッと腎
臓で床について居る お袋の顔が頭に浮ぶと、「これではいけない」と足をふん
ばった。
「愛国号の羽根のチヨッピリぐれえは、おらアたちのもんよオー。」
 誰かが叫んだので皆んな声の方を向いた。ミチ子と話して居る事のある芳江
だった。
 マサ江は芳江の言葉の意味が解った様な解らないような気持ちでブルルンと
頭を振った。そして、
「春代さアん、窓あけてくんない?」
 と隣の春代に云ったが、力のぬけた彼女の声は、三間と離れない春代にとど
かないで繰音にかき消された。
「マサちやん、なアーにーよオ―?」
「窓、あ、け、て、く、れ、な、いーって云うの。」
「ああ窓?広田(監督)の奴に、が鳴られっぞオ―。」
 春代は男のような言葉で、いけないと手を振った。
「いいから、あたし、とてもこらえられないのオー。」
 マサ江はそれだけ云って下ッ腹がヘトヘトになった。
「駄目、駄目、あたしがどやされんだから、あの助平野郎にサアー。」
 マサ江はあきらめて黙った。
 春代は結んだ糸のはしにほっぺたをくっけて、カチンと噛み切った。
「チエッ、糸が悪いのに、糊つけまでこんなざまだ。」
 糸の切れるのはマサ江だけでなかった。みんな後れ毛をなで上げては指先を
なめた。それでも皆は出来るだけ自分の糸のきれるのをかくした。唯、割に若い
女工根性のしみてない娘はブツブツ不平を鳴した。中には泣く娘さえあった。そ
んな時には大部分の者がせせら笑った。他の者が糸の切れて困って居るのを
見て小気味よく思った。
 出来高払いで、皆んなの競争心をそそって能率を上げ、女工の団結を防止し
ようとして居る会社の策動には気づかずに、ただやたらに意地ッ子になって居た。
「自分さえ多く織れば、……。」みんなそう云う気持ちだった。
 マサ江は織り出される純白の絹地が自分の頭に覆おいかむさって来た、と思
うとボーッと目先がかすんで、クラクラッとめまいが来た。夢中でハタを止めると、
其の上にうつぶしてしまった。
「マサ江さアーん、どうしたアー。」
 周囲の者が驚いて声をかけたが、すぐそつくさとハタに手をはこんで、側に来
て労わろうとする者はなかった。
 その時、廊下の方から広田がげびたしわがれ声でが鳴りながらやって来た。
「おめえらアー、愛国号オーもうぢき来るでエー、屋根に上れエー、万才やるん
だぞオー。」
 キヤツ金切り声が上った。繰音はピタリと止んだ。女工はワイワイ廊下の方
に流れた。
「このオあまアー、サボリあがってエー。」
 マサ江はハツとして体を起した。見ると監督の広田が、眞裸にズボン一つで、
つっ立って居た。マサ江は蛇に向はれた蛙の様に肩をすぼめて頭をペコンと
下げた。
「す、み、ま、せ、ん。」
 それだけで精一ぱいだった。
「このあまアー、織れねえと思ってだらサボリあがってエー、今日はビリだぞっ」
 マサ江は月末に貼り出される成績表の事が頭に浮んだ。本当にビリにされた
ら、それこそ女工仲間からは「のけもの」にされるし、成績がよくても二三ヶ月は
ビリで居なければならなかった。それに成績は殆ど監督の意志で決められた。
「持ち物」(贈りもの)をよくすればどうにでもなった(マサ江は、そんな事は決し
て良い事でもないし、自分などは出来ない事だと考へて居た。)が此の場は、あ
やまるより外になかった。
「体ア、具合悪いもんで、……。」
「具ぐ合えエーわりイ?手××××(註:卑猥な隠語を伏字にしたのであろう)した
だろう、マサア、おらアと今夜どうだ。」
 広田はマサ江の肩をグッと引き寄せようとしたッ。
「バ、バカアッ」
 マサ江は広田の太い腕をはらうと夢中で皆の後から走った。
 後の方で、かすかに広田の罵声が聞えた様な気がした。
「マサアーおぼえてろーツ」
 非常出口を出るとフーフー息を切らして梯子に足をかけた。足はピツと張って、
膝を折る度にピリツ、ピリツとしびれる様に痛んだ。中程迄上った時、拍手と万
才の声がドッと起った。
――ばアん、ざアーい。
――ワアー
 梯子をぎっしり握ったまま、マサ江はその声に、ひどく自分が侮辱された様な
気がして、急に泣き出しそうな顔をした。それが何故だか自分にも分らなかった。
そして、ソッと「ミッちやァん!」と大声でミチ子を呼んでみたい衝動にかられた。
 愛国山形号が再び女工達の頭の上に来ると、みんなはもう一度、「ば、ん、ざ
ァーい」と叫んだ。女工達は、片づをのんで「宙返り」や「木の葉返し」を今か今か
と待って居たが、西の山のてっぺんに、黒い点の様に消えると、飛行機は再び
戻って来なかった。
 みんなは変に空虚な気持ちになった。だまされた様な気もして訳も解らずに興
奮して大声を出した事が馬鹿らしくなった。皆んなの目は何処を見るともなく第二
工場の屋根に白墨で書かれた、「祝山形号」「健斗を祈る」の眞白な大字と新し
い三畳敷き位の「日の丸」の旗にそそがれて居た。
 その目は忿懣に燃えて居た。
                                          ―未完―
                                   一九三三、五、二三
              『庄内の旗』第壱巻第参号(昭和八年六月十三日発表)