この画像は戯曲「遺族」が発表された雑誌「鍬と銃」です。国会図書館所蔵「発禁図書目録ー1945年以前ー」(この存在はほとんど知られていない)とか「旧函架図書発禁本(特500、501番台)資料目録」で丹念に調べて、ラッキーにも、この雑誌は見つけられました。「ラッキーにも」と表現した理由は、発禁本は旧内務省警保局(発禁権限を持っていたところ。ただし、日米開戦以降には実質的に警視庁特高課が握っていました)で正規に処分されたものは警保局と帝国図書館つまり現国会図書館に保存されることになっていたのですが、これとは別に特高には正規の分と闇で押収した分もありましたし警保局自体に図書館送りをしていない記載もしてあったかどうかわからない発禁本が山ほどあったあったわけですし、その警保局の物は進駐軍が全部米国議会図書館に接収してしまっていたのですから、まさに氷山の一角からの発見だったのです。戦前の暗黒時代に消された文学などの貴重な財産を知るために米国議会図書館に消えた発禁本の完全な返却が望まれます。
上に上げた写真をよく見てみてください。右側は表紙です。写真が下手で不鮮明ですが、中央上方の角印は帝国図書館蔵と読めます。右上端には函の欄に安寧とあり号は825で永久保存としています。また、その左には禁安1-564(おそらく発禁理由が安寧違反で、その番号を記載してあるのでしょう、抹消の線引きが残っています)と特500-353(戦後に整理した旧函架図書番号)が見えます。左側は見開きですがここにインク書きで8.8.3 禁止とあります。これは昭和8年8月3日に禁止決定を示したものでしょう。この「鍬と銃」は昭和8年7月30日印刷で8月5日発行ですので、実に素早い決定と言えますし表紙を見ただけでの決定だっとも言えます。こういう形で闇に消えたプロレタリア文学、経済学、社会科学などの貴重な書物が無数にあったのだ、と考えると残念でなりません。憲法9条を守ることがいかに大切であるか、「発禁」の歴史からも明らかであると考えますが、みなさん如何ですか。
ところで、「遺族」と「黙祷(2)」を読んでの感想や疑問などなんでもどうぞお寄せください。
次回からは小説「女工」を2回に分けて発表します。じっくりとお読みください。
2009年1月29日木曜日
2009年1月28日水曜日
戯曲作品「遺族」-その3
第三景 前景に同じく、お兼の家
お兼、豆の埃りを撰り分けながら独言をつぶやいて居る。
お兼 あーア、いやなこった。まるで蜂の巣みてえに寄ってたかって持って行き
くさる。加賀の旦那ァ役 場とぐるンなって、作得の、とどこった分を天引し
やがるし、おまけに、役場の上納まで天引だ。ケッ (豆を投げ出して)まる
で泥棒でねえか・・・・・・おらアの家に、田ア一枚殖えるでねえ、馬ァ一匹買
え るでねえ、勝ぅ草葉の影で泣いてるベえ、おらア済まねえ、俺ア済まね
えだ。
その時洋服の男入って来る。
洋服の男 婆ばア居るか?
お兼 居るど。
洋服の男 婆ばア勝っあん、亡くなつたてでえねえか、気の毒な事したな。
お兼 ほんに勝う居て呉れたらとそう思うと俺ア居ても立っても居られねえだ。
洋服の男 そんでも、勝っあんは親孝行もんだ、死んでも金どっさり残して
呉れたもんな。
お兼 それがお前え・・・・・・
洋服の男 (その言葉をさえ切って)イヤ他でもねえが、ほれ、勝っあん先々
落した俺ンとこの無尽な。
(註:「無尽」は「頼母子講」と同じで互助的な金融会社もしくは組合。
利用者・組合員はその掛 け金を上回って高利子で融通しても
らう。古くから戦前まであった市民金融の一種)
お兼 (驚いて)ぇえ。
洋服の男 何、ちっとだけどな、あいつの掛金とどこってるで、会社の方では
近いうち競賣するって云ってたから、そんな事しねえで、おだやかに決
めたらいいと、こう思って、ちょっと教えに来たんだがな。
お兼 一体どの位えだし。
洋服の男 (書類をめくりながら)うん、ちっとだ。五百円に落したで、百八十
円ばかしの遅れだ、そればかしで、保証した源助さんとこも迷惑するん
だから、何とか考えて置いて呉れ、な。叉近いうち来る で。(そそくさと
去る)
お兼 おーア、何んてこった、勝ぅ残した金、みんな、みんな持って行かれる
だ。こんではまるで、勝ぅ借金取りの為めに死んだ様なもんでねえか、
勝ぅ体みんな野郎共に、しやぶられる様なもンでねえか・・・・・・おらア悪
りいだ、おらア考え足りなかっただ。(うなだれて考え込む)
好江が入って来る。
好江 おッ母ア少し早えけんど、息切れすンで上って来ただ。オヤ。おッ母ア
何考えてるだ。
お兼 ・・・・・・
好江 叉、借金取りけ?
お兼 (うなづく。)
好江 おッ母ア払ってやったんであんめえな?
お兼 (首を横に振る)好ッ、おッ母ア、おッ母ア始めて眼え覚めただ。みん
なおッ母ア悪りいだ、勝う泣いてるべえ、めくされ金いらなかっただ。勝
ぅ帰えして貰いてえだ。
好江 おッ母ア、解かっただか、おらア毎日田ン甫で泣いたど、どうしておッ
母ア目腐れ金に気狂え見
てに喜んでンだろ、勝兄イは、なんぼ口惜しんだろ、そう思うと涙ア出
ただ。
お兼 許して呉ンろ、な好ッ、おッ母ア考え足りなかつただ。あぁ恥しいこん
だ。仁吉や源助や作造に顔向けなンねえだ。・・・・・・ほんにおらア、目、
目腐れ・・・・・・
好江 おッ母ア、何ンでもねえだ。仁吉さ云ってたど、おッ母ア悪りいでねえ、
金呉れてだまくらかした奴悪りいだってな、それに、おッ母アみてえに、
だまくらかされてるもンが、なんぼあッがしンねえ。そんでも今にきっと
眼覚る時来るだ。肥料(註:こえ)高くなんのも、役場の上納高くなんの
も、みんな兄ンちや殺した戦のためだって云ってたぞ。
お兼 ほうが、おら良く解ンねえけンど、今アなって見れば、勝う戦にやるで
なかった。これから俺アどう して暮すだ、勝ぅやるでなかった。
好江 おッ母ア心配えいらねえだ、村の寄り合いでおらア家の作得をただに
して、取った田ア返えせって加賀に談判すること相談してるだ。
お兼 ほうが、有難えこんだ。俺ア組合あんでほんに気イ強いだ、俺ア、勝ぅ
仇き取るつもりで稼ぐべえ、な好ッ。
好江 ほうだ、おッ母ア、俺ア達仇き取るこんだ、どんな、ど偉えこんも、みん
なア固まれば、きっと出来るって、仁吉の兄ンちや云ってただ。(思い出
して)おッ母ア、すまねえけんど、まんまの支度くしてくんろ。な、俺ア、
煙り吸うと喉苦しくなるだ。其の代り豆俺アいるべえ。
お兼 よし、よし、お前えほんに体ア大丈夫け、無理すんでねえど。(立ち上る)
好江 ん、大した事アねえだ、心配えすんでねえ。
お兼 ほんならええけんど、ほんに気いつけれや(勝手に去る)
好江、豆をいり始める。
好江 (ソロ)俺ア、ほんに体ア悪いかも知んねえ、田アぶちながら、息がハア
ハア切れる。どうしたンだ ろ?・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほうだ、機場に居た時
も時々目めいがしてぶッ倒れンでねえかと思った。ムンムンした、ごみン
中で、毎日倒れるもンが出た。そのたんび、満州の兵隊思えって頭から
水ぶッかけられた。きっと此の病気、機場から持って来たに違えねえ・・・
・・・・・・・・・・。 けんど、けんど俺ア病気に負けるもんか、おッ母ア眼え覚め
て呉れた、おらア寄り合へだ、こんなうれしいことあるもんか、そんで病気
に負けてたまるけ・・・・・・(後に向って)おッ母ア、今日来た借金とり何処
だア。
お兼の声 町の無尽会社だア、百八十円におくれだとよ、
好江 ほうが、俺ア寄り合いで話すべえ、みんなで相談すべえなおッ母ア。
お兼の声 ほうしてけれ!お好ッ。
好江 そうすべえ。
お兼の声 村田のみよ帰えってるで云うでねえが。
好江 うん、帰ってるだ。みよさや、俺アほんに間違った事オしたア云ってるど。
お兼の声 ほうが、ほうが・・・・・・・・・・・・
好江(ソロ) 寄り合へに来るもンは十人になった。爺いも居る。若けえもンも
居る。娘ッ子は俺アと、みよさやと、たった二人だけんど、今に三人にし
て見せる。・・・・・・・・・・・・仁吉の兄ンさやは色ンな事話して呉れる。兄ンち
や殺した戦さのこと、おらアの暮らしのこと、新聞に難しい字で書いてあ
るいろんな事、そいから、ソ、ソヴァ(註:ソフォーズ=国営農場のこと)忘
れちまった、何だっけろ、ほうだ、今のロシヤの話して呉れる。此の前は、
自動車みてえなもン動してる百姓の娘の写真見せて呉れた。その顔は、
とってもうれしそうだった。俺アもこンげえ、なりてなアて、云ったら、仁吉
の兄ンちや「寄り合へ大きくして、地主の加賀や、戦さけしかける金持ち
と闘うこんだ、ほしだら、みんなごげえなれっぞ」って眞面目くさった顔で
云ってた。そんとき、俺ア何だか胸が焼ける様な気イし た。・・・・・・・・・・・
お兼の声 好ッ、俺アちょっくら畠さ行って、夏菜とって来るどオー。
好江 ウン・・・・・・(ソロ)今度、俺ア達若えもんで芝居やっことに決めた。俺ア
達の兄ンちや奪ったり、肥料高くする戦さ、反対だってう芝居だ、おら、
仁吉兄ンちやの嫁の役だ、恥しいこんだ、ほんでも村のもンの眼え覚すた
めだ、ほんなこと云ってられねえ。・・・・・・・・・・ほンだ、機場のみねちやと
ゆきちやに手紙書くべえ「機場さも寄り合へこさえろ」ッて・・・・・・、だけん
ど、監督の奴封切って見ッかもシンねえ・・・・・・。
お兼の声 好イッ、仁吉兄ンちや来たど。
好江 あ、迎へに来ただ、芝居のケイコだっけ、(立ち上り上手の方に)今、い
くどオー、まんまかっこむからまっててけろオなアー。
一九三三・六・三〇
『鍬と銃』プロレタリア戯曲叢書第五編
(昭和八年八月五日発表)
お兼、豆の埃りを撰り分けながら独言をつぶやいて居る。
お兼 あーア、いやなこった。まるで蜂の巣みてえに寄ってたかって持って行き
くさる。加賀の旦那ァ役 場とぐるンなって、作得の、とどこった分を天引し
やがるし、おまけに、役場の上納まで天引だ。ケッ (豆を投げ出して)まる
で泥棒でねえか・・・・・・おらアの家に、田ア一枚殖えるでねえ、馬ァ一匹買
え るでねえ、勝ぅ草葉の影で泣いてるベえ、おらア済まねえ、俺ア済まね
えだ。
その時洋服の男入って来る。
洋服の男 婆ばア居るか?
お兼 居るど。
洋服の男 婆ばア勝っあん、亡くなつたてでえねえか、気の毒な事したな。
お兼 ほんに勝う居て呉れたらとそう思うと俺ア居ても立っても居られねえだ。
洋服の男 そんでも、勝っあんは親孝行もんだ、死んでも金どっさり残して
呉れたもんな。
お兼 それがお前え・・・・・・
洋服の男 (その言葉をさえ切って)イヤ他でもねえが、ほれ、勝っあん先々
落した俺ンとこの無尽な。
(註:「無尽」は「頼母子講」と同じで互助的な金融会社もしくは組合。
利用者・組合員はその掛 け金を上回って高利子で融通しても
らう。古くから戦前まであった市民金融の一種)
お兼 (驚いて)ぇえ。
洋服の男 何、ちっとだけどな、あいつの掛金とどこってるで、会社の方では
近いうち競賣するって云ってたから、そんな事しねえで、おだやかに決
めたらいいと、こう思って、ちょっと教えに来たんだがな。
お兼 一体どの位えだし。
洋服の男 (書類をめくりながら)うん、ちっとだ。五百円に落したで、百八十
円ばかしの遅れだ、そればかしで、保証した源助さんとこも迷惑するん
だから、何とか考えて置いて呉れ、な。叉近いうち来る で。(そそくさと
去る)
お兼 おーア、何んてこった、勝ぅ残した金、みんな、みんな持って行かれる
だ。こんではまるで、勝ぅ借金取りの為めに死んだ様なもんでねえか、
勝ぅ体みんな野郎共に、しやぶられる様なもンでねえか・・・・・・おらア悪
りいだ、おらア考え足りなかっただ。(うなだれて考え込む)
好江が入って来る。
好江 おッ母ア少し早えけんど、息切れすンで上って来ただ。オヤ。おッ母ア
何考えてるだ。
お兼 ・・・・・・
好江 叉、借金取りけ?
お兼 (うなづく。)
好江 おッ母ア払ってやったんであんめえな?
お兼 (首を横に振る)好ッ、おッ母ア、おッ母ア始めて眼え覚めただ。みん
なおッ母ア悪りいだ、勝う泣いてるべえ、めくされ金いらなかっただ。勝
ぅ帰えして貰いてえだ。
好江 おッ母ア、解かっただか、おらア毎日田ン甫で泣いたど、どうしておッ
母ア目腐れ金に気狂え見
てに喜んでンだろ、勝兄イは、なんぼ口惜しんだろ、そう思うと涙ア出
ただ。
お兼 許して呉ンろ、な好ッ、おッ母ア考え足りなかつただ。あぁ恥しいこん
だ。仁吉や源助や作造に顔向けなンねえだ。・・・・・・ほんにおらア、目、
目腐れ・・・・・・
好江 おッ母ア、何ンでもねえだ。仁吉さ云ってたど、おッ母ア悪りいでねえ、
金呉れてだまくらかした奴悪りいだってな、それに、おッ母アみてえに、
だまくらかされてるもンが、なんぼあッがしンねえ。そんでも今にきっと
眼覚る時来るだ。肥料(註:こえ)高くなんのも、役場の上納高くなんの
も、みんな兄ンちや殺した戦のためだって云ってたぞ。
お兼 ほうが、おら良く解ンねえけンど、今アなって見れば、勝う戦にやるで
なかった。これから俺アどう して暮すだ、勝ぅやるでなかった。
好江 おッ母ア心配えいらねえだ、村の寄り合いでおらア家の作得をただに
して、取った田ア返えせって加賀に談判すること相談してるだ。
お兼 ほうが、有難えこんだ。俺ア組合あんでほんに気イ強いだ、俺ア、勝ぅ
仇き取るつもりで稼ぐべえ、な好ッ。
好江 ほうだ、おッ母ア、俺ア達仇き取るこんだ、どんな、ど偉えこんも、みん
なア固まれば、きっと出来るって、仁吉の兄ンちや云ってただ。(思い出
して)おッ母ア、すまねえけんど、まんまの支度くしてくんろ。な、俺ア、
煙り吸うと喉苦しくなるだ。其の代り豆俺アいるべえ。
お兼 よし、よし、お前えほんに体ア大丈夫け、無理すんでねえど。(立ち上る)
好江 ん、大した事アねえだ、心配えすんでねえ。
お兼 ほんならええけんど、ほんに気いつけれや(勝手に去る)
好江、豆をいり始める。
好江 (ソロ)俺ア、ほんに体ア悪いかも知んねえ、田アぶちながら、息がハア
ハア切れる。どうしたンだ ろ?・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほうだ、機場に居た時
も時々目めいがしてぶッ倒れンでねえかと思った。ムンムンした、ごみン
中で、毎日倒れるもンが出た。そのたんび、満州の兵隊思えって頭から
水ぶッかけられた。きっと此の病気、機場から持って来たに違えねえ・・・
・・・・・・・・・・。 けんど、けんど俺ア病気に負けるもんか、おッ母ア眼え覚め
て呉れた、おらア寄り合へだ、こんなうれしいことあるもんか、そんで病気
に負けてたまるけ・・・・・・(後に向って)おッ母ア、今日来た借金とり何処
だア。
お兼の声 町の無尽会社だア、百八十円におくれだとよ、
好江 ほうが、俺ア寄り合いで話すべえ、みんなで相談すべえなおッ母ア。
お兼の声 ほうしてけれ!お好ッ。
好江 そうすべえ。
お兼の声 村田のみよ帰えってるで云うでねえが。
好江 うん、帰ってるだ。みよさや、俺アほんに間違った事オしたア云ってるど。
お兼の声 ほうが、ほうが・・・・・・・・・・・・
好江(ソロ) 寄り合へに来るもンは十人になった。爺いも居る。若けえもンも
居る。娘ッ子は俺アと、みよさやと、たった二人だけんど、今に三人にし
て見せる。・・・・・・・・・・・・仁吉の兄ンさやは色ンな事話して呉れる。兄ンち
や殺した戦さのこと、おらアの暮らしのこと、新聞に難しい字で書いてあ
るいろんな事、そいから、ソ、ソヴァ(註:ソフォーズ=国営農場のこと)忘
れちまった、何だっけろ、ほうだ、今のロシヤの話して呉れる。此の前は、
自動車みてえなもン動してる百姓の娘の写真見せて呉れた。その顔は、
とってもうれしそうだった。俺アもこンげえ、なりてなアて、云ったら、仁吉
の兄ンちや「寄り合へ大きくして、地主の加賀や、戦さけしかける金持ち
と闘うこんだ、ほしだら、みんなごげえなれっぞ」って眞面目くさった顔で
云ってた。そんとき、俺ア何だか胸が焼ける様な気イし た。・・・・・・・・・・・
お兼の声 好ッ、俺アちょっくら畠さ行って、夏菜とって来るどオー。
好江 ウン・・・・・・(ソロ)今度、俺ア達若えもんで芝居やっことに決めた。俺ア
達の兄ンちや奪ったり、肥料高くする戦さ、反対だってう芝居だ、おら、
仁吉兄ンちやの嫁の役だ、恥しいこんだ、ほんでも村のもンの眼え覚すた
めだ、ほんなこと云ってられねえ。・・・・・・・・・・ほンだ、機場のみねちやと
ゆきちやに手紙書くべえ「機場さも寄り合へこさえろ」ッて・・・・・・、だけん
ど、監督の奴封切って見ッかもシンねえ・・・・・・。
お兼の声 好イッ、仁吉兄ンちや来たど。
好江 あ、迎へに来ただ、芝居のケイコだっけ、(立ち上り上手の方に)今、い
くどオー、まんまかっこむからまっててけろオなアー。
一九三三・六・三〇
『鍬と銃』プロレタリア戯曲叢書第五編
(昭和八年八月五日発表)
2009年1月22日木曜日
戯曲作品「遺族」-その2
第二景 お兼の家
殺風景な部屋の片隅の箱に蝋燭と線香が立って居る。其前でお兼が
御詠歌を低い声で唄ッて居る。箱の上には、電報が乗って居る。囲炉
裏を囲んで四五人の男が思案顔に話して居 る。(その中に源助、作造
も混って居る。御詠歌は、其の地方に適切な歌詞を選ぶべきだ)
宗吉 こねえだ、発ったと思ふとったら、余ンまり早えこんだ。
謹六 おかねさも、ええ息子持って幸せだ云うてたが、気の毒なこんだ、それア
国の為め云うけんどな。
源助 ほんに、不思議なくれえ早えこんだ、好江も返えさねえ中に、こんな事な
ってしまおうとは、誰が、誰が考へつくこんだ。
謹六 好江さの方、うまく行っただか?
作造 それがよ、旅費工面つかねえだで、手紙で云ってやったけんど、ラチ明か
ねえで、やっとこさ、やりくりして仁吉に行って貰らっただ、ほしたら、うまえ
具合に話決って、昨日発つて来ただから今日にも来ンべえ。
宗吉 それァ、まァ良かっただ。それにしても、好江さ驚くべえ、たった一人兄に
亡くして、あの娘も可哀想なもんだ。
作造 好江も驚くべえ、仁吉帰ったら、なんちて云うだろう。あれの発つた日目が
けて、加賀の奴ア田に水引いてしまうし、今日当り田植始めてるざまでね
えか、それえ指くわえて見てねえなんねえとは、勝ぅにしたとこで、なんぼ
口惜しこんだろ。
謹六 俺ァ真実のこと云うげんど、始めは組合のものばっかりだろ思うでただ。
村田の爺ぃも、仁左ェ 門も、音も、みんなそう云ってるだ、こげえなことなん
だら、組合え抜けねえで、固ってれば、えかったってな、俺らァも、こうなっ
て見るど、組合の悪口ただいた事後悔されるだ。・・・・・・けんど、今に な
ってはぐちだもんな。
源助 何ぐちだもんだ、な作さ、俺ァ達、こねえだも話してただ。村のもんはみ
んな、組合を眼の仇きしてるけど、今に目覚めるべえってな。
作造 ほうだともよ、これからだって遅くはねえど、仁吉帰ったら、寄合い開い
で相談すべえ、なンも、組合だ云うて、やかましい名前つけることもいらね
えだ。 な。
謹六 俺ァがらは、そげなこと云はれた義理でもねえが、そうして貰ろうたら、
どげに助かるべえ。
宗吉 俺ァも謹六さ云う通りだで、ほんに、受け持や加賀の奴に、だまされて
ただ。
茂太 (立ち上がりながら)俺ァ馬ァ放して来たで、ちょっくら見てくべえ。あと
で、叉くるンで。(去る)
宗吉 (去った後を見やりながら)ケッ、寄合いのことでも加賀に告げて、作
得まけて貰ったらいいだらッ(皆の方に向き直って)茂太の奴加賀に手
伝え行ってるだ。
作造 ほうが、助平根生出しやがって。
謹六 恐しいこんだ。昨年の争議で二十日入つた茂太が、あんななんだか
らな。
源助 ほんにさ、そんで、よくも大きい面してられるもんだ。
仁吉 (好江を連れて、せき込んで入って来る。家の中を見て、ギョッとす
る。)
作造 仁吉か。
仁吉 い、一体どうしただ。
源助 それが、お前え・・・・・・
仁吉 田ン甫には知ンねえもんが入り込んでるし、家へ来て見れば、
勝ぅ・・・・
皆無言でうなだれる。好江は母の側に近よる。
好江 おっ母ア、帰えっただ。
お兼 (此の時始めて声を止めて振り向き)おお好ッ、よく帰っただ、よく
帰っただ。勝ぅ見イ、戦さで死 んだだ。名誉の戦死遂げただ。これ見
い。(電報を見せる。)
好江 (震える手で受け取って、おろおろ声で読む)二十三日午前四時、
長域の激戦にて齊藤勝男君名譽の戦死を遂ぐ。(読み終わると、わッ
と泣きくづれる。)
お兼 好ッ、何泣くだ。兄イ兄イは名譽の戦死遂げただ、何泣くだ。勝ぅは
親孝行もンだぞ、金、うんとこさ貰えるだ。好ッせ、千円の金貰れえる
だど。
皆はあっけに取られる。
お兼 おッ母ァ金持なっど、好ッ、せ、千円だど、泣くンでねえだ、何悲しい
だ。こげえ、め、芽出度えごどあるもんでねえに。
仁吉 (堪り兼ねて)おッ母ァ何云うだ、そ、そんな、めくされ金と勝ぅ命取
り換えられるもンでねえ、おッ母ァ・・・・・・
お兼 (ヒステリックに)めくされ金だッ、このろくでなし、どこめくされ金だ。
(好江に向って)好ッ、笑えや、おッ母ァ地主の加賀にも、信用組合に
も、なんもかんも、みんな払ってやるだ。借金みんな返すだ。な好ッ、
おッ母ァ田ア買って、お前えに赤え着物のこさえで、むこ貰らっでや
るぞ、な。
好江 おッ母ァ、おら、赤けえ着物欲しくねえ、なんも欲しくねえだ、兄ン
ちや、 兄ンちやん。
お兼 何いうだ、千円いらねってが、千円いらねってが、こ、このごくつ
ぶしッ。(お兼、蝋燭台を振り上げる)
皆「アッ」と立ちかける。仁吉、お兼の手から、蝋燭台を取りながら、
仁吉 おッ母ァ、気イ靜めて呉ンろ、気イ静めて呉ンろ。
-暗転-
殺風景な部屋の片隅の箱に蝋燭と線香が立って居る。其前でお兼が
御詠歌を低い声で唄ッて居る。箱の上には、電報が乗って居る。囲炉
裏を囲んで四五人の男が思案顔に話して居 る。(その中に源助、作造
も混って居る。御詠歌は、其の地方に適切な歌詞を選ぶべきだ)
宗吉 こねえだ、発ったと思ふとったら、余ンまり早えこんだ。
謹六 おかねさも、ええ息子持って幸せだ云うてたが、気の毒なこんだ、それア
国の為め云うけんどな。
源助 ほんに、不思議なくれえ早えこんだ、好江も返えさねえ中に、こんな事な
ってしまおうとは、誰が、誰が考へつくこんだ。
謹六 好江さの方、うまく行っただか?
作造 それがよ、旅費工面つかねえだで、手紙で云ってやったけんど、ラチ明か
ねえで、やっとこさ、やりくりして仁吉に行って貰らっただ、ほしたら、うまえ
具合に話決って、昨日発つて来ただから今日にも来ンべえ。
宗吉 それァ、まァ良かっただ。それにしても、好江さ驚くべえ、たった一人兄に
亡くして、あの娘も可哀想なもんだ。
作造 好江も驚くべえ、仁吉帰ったら、なんちて云うだろう。あれの発つた日目が
けて、加賀の奴ア田に水引いてしまうし、今日当り田植始めてるざまでね
えか、それえ指くわえて見てねえなんねえとは、勝ぅにしたとこで、なんぼ
口惜しこんだろ。
謹六 俺ァ真実のこと云うげんど、始めは組合のものばっかりだろ思うでただ。
村田の爺ぃも、仁左ェ 門も、音も、みんなそう云ってるだ、こげえなことなん
だら、組合え抜けねえで、固ってれば、えかったってな、俺らァも、こうなっ
て見るど、組合の悪口ただいた事後悔されるだ。・・・・・・けんど、今に な
ってはぐちだもんな。
源助 何ぐちだもんだ、な作さ、俺ァ達、こねえだも話してただ。村のもんはみ
んな、組合を眼の仇きしてるけど、今に目覚めるべえってな。
作造 ほうだともよ、これからだって遅くはねえど、仁吉帰ったら、寄合い開い
で相談すべえ、なンも、組合だ云うて、やかましい名前つけることもいらね
えだ。 な。
謹六 俺ァがらは、そげなこと云はれた義理でもねえが、そうして貰ろうたら、
どげに助かるべえ。
宗吉 俺ァも謹六さ云う通りだで、ほんに、受け持や加賀の奴に、だまされて
ただ。
茂太 (立ち上がりながら)俺ァ馬ァ放して来たで、ちょっくら見てくべえ。あと
で、叉くるンで。(去る)
宗吉 (去った後を見やりながら)ケッ、寄合いのことでも加賀に告げて、作
得まけて貰ったらいいだらッ(皆の方に向き直って)茂太の奴加賀に手
伝え行ってるだ。
作造 ほうが、助平根生出しやがって。
謹六 恐しいこんだ。昨年の争議で二十日入つた茂太が、あんななんだか
らな。
源助 ほんにさ、そんで、よくも大きい面してられるもんだ。
仁吉 (好江を連れて、せき込んで入って来る。家の中を見て、ギョッとす
る。)
作造 仁吉か。
仁吉 い、一体どうしただ。
源助 それが、お前え・・・・・・
仁吉 田ン甫には知ンねえもんが入り込んでるし、家へ来て見れば、
勝ぅ・・・・
皆無言でうなだれる。好江は母の側に近よる。
好江 おっ母ア、帰えっただ。
お兼 (此の時始めて声を止めて振り向き)おお好ッ、よく帰っただ、よく
帰っただ。勝ぅ見イ、戦さで死 んだだ。名誉の戦死遂げただ。これ見
い。(電報を見せる。)
好江 (震える手で受け取って、おろおろ声で読む)二十三日午前四時、
長域の激戦にて齊藤勝男君名譽の戦死を遂ぐ。(読み終わると、わッ
と泣きくづれる。)
お兼 好ッ、何泣くだ。兄イ兄イは名譽の戦死遂げただ、何泣くだ。勝ぅは
親孝行もンだぞ、金、うんとこさ貰えるだ。好ッせ、千円の金貰れえる
だど。
皆はあっけに取られる。
お兼 おッ母ァ金持なっど、好ッ、せ、千円だど、泣くンでねえだ、何悲しい
だ。こげえ、め、芽出度えごどあるもんでねえに。
仁吉 (堪り兼ねて)おッ母ァ何云うだ、そ、そんな、めくされ金と勝ぅ命取
り換えられるもンでねえ、おッ母ァ・・・・・・
お兼 (ヒステリックに)めくされ金だッ、このろくでなし、どこめくされ金だ。
(好江に向って)好ッ、笑えや、おッ母ァ地主の加賀にも、信用組合に
も、なんもかんも、みんな払ってやるだ。借金みんな返すだ。な好ッ、
おッ母ァ田ア買って、お前えに赤え着物のこさえで、むこ貰らっでや
るぞ、な。
好江 おッ母ァ、おら、赤けえ着物欲しくねえ、なんも欲しくねえだ、兄ン
ちや、 兄ンちやん。
お兼 何いうだ、千円いらねってが、千円いらねってが、こ、このごくつ
ぶしッ。(お兼、蝋燭台を振り上げる)
皆「アッ」と立ちかける。仁吉、お兼の手から、蝋燭台を取りながら、
仁吉 おッ母ァ、気イ靜めて呉ンろ、気イ静めて呉ンろ。
-暗転-
2009年1月17日土曜日
戯曲作品「遺族」-その1
池田勇作がペンネーム牧本進で1933年6月発表したこの作品は、掲載した雑誌「プロレタリア戯曲叢書・第五輯 鍬と銃 -★八月一日のための反戦小脚本集」(コップ日本プロレタリア演劇同盟レパアトリイ委員会・編、1933.7.20発行)が内務省警保局と特高によって発行と同時に「発禁」(註:発行・発売禁止)処分され闇の中に閉じ込められていましたが戦後1988年7月発禁図書の山の中から発掘され「日本プロレタリア文学集・37」(新日本出版)に作者来歴不詳のまま掲載され世に出てきたものです。その後2007年3月13日(註:3.13は作者の命日)に「魂の道標へー池田勇作と郁の軌跡」で作者の本名、その生涯が明らかにされたのです。底本の「鍬と銃」記載の解説によれば「八・一国際反戦デーを迎える世界プロレタリアート農民諸君へ贈られた私たちの心からなる革命的挨拶」として全国に募集し、それに応じた約十五編の内で「遺族」は「地方から応募された中で最も優れていた」とあります。そして、先述の「日本プロレタリア文学集・37」には「ドラマは、一方では、息子の勝を赤紙にとられて戦死させた母お兼の変化をとらえつつ、他方では、農民たちが組合に結集して、闘いに立ち上がる変化を描いている」とあります。
先に掲載の作品「黙祷(二)」は小林多喜二の虐殺(2月20日)の労農祭の日に特高によって予防拘禁された時に抱いた決意を表明したものですが、この「遺族」は、まさに、「ーだが同志小林よ! 俺たちは必ずこの東北の一隅に君の鉄の意志を継ぐぞ!」、を実践する珠玉の作品であった、と思っています。この作品は三景構成ですので、みなさんからじっくりとご鑑賞願えるように、一景づつ掲載していきます。どうぞよろしく。
遺 族 三景 牧本 進
時 一九三三年五月中旬
所 或る農村
人 母 お兼(註:おかね) 六十近い婆
娘 好江 十九歳
仁吉 二十四歳
源助 五十二歳
作造 四十九歳
宗吉 四十五歳
謹六 四十二歳
茂太 三十二歳
洋服の男 二十七歳
第一景 作造の家
第二景 お兼の家
第三景 お兼の家
第一景 作造の家
炉を囲んで作造と源が話して居る。外は夕方のざわめきに包まれて居
る。
源助 ・・・・・・あの氣丈なお兼婆アも、勝発ってしまうと氣イ抜けた様になった
には驚いたもんだ。
作造 赤(註:徴兵令の赤紙)来た時にはびっくりして、勝発つまでは何だ彼
だで気も立ってたろが、行かれて見ると大黒柱だもんな。
源助 地主の加賀で、祝儀だちンで米一俵よこしたちゆうでねえが?
作造 それがよ、お前え、あたりのもンは組合だちて、なんぼ立っていた所で
貰って見れば有難えだろ って影口ついだで、勝の奴ア怒って婆ア連れて
加賀に返へしに行ったちゆう話だで。
源助 ふゝゝゝ勝も未だ若えからのオ。それにしても村の者は組合、組合って
まるで眼の仇きしてるでねえが。ほんに困ったもんだ。受持ちの旦那で、
組合へ入るど、ろぐなことをどって、ふれて歩くちゆ う話しだし。
作造 ほんに困るどきは組合で、風の吹きよが変るどこんだは眼の仇きだ、
そんでも今に眼さめる時くんべえ、今年あたり肥料(註:コエ)入れねえも
んがおらア村に五六人に出たからな、今年は石灰でもまいて間に合うだ
ろが来年なったらどうすンだで。
源助 お上では自力更生のなんのつて、金肥入れねえで間に合はせろちた
処で、作悪りい事知って、誰が、糞汲む暇つぶされるもんでねえ、そげな
事云う位えなら豆粕でも硫 安でも馬鹿気た値つけんといゝだ。
作造 ほうだともよ、満州国出来た云うから、うんとこさう安うなるべえ思うと
ったらこの態だ。これがお前長びいてみろ、どえれえこんになるど、あろ
うだって来年の肥どうするだ思うと、ほんに咽しめられる思いだ、黙って
居だら百姓ァ飢え死にだもんな。
源助 ほんにさ、俺アもそれ考る、氣狂えになりてえ位えだけんど、組合ち
ゆうもんがなんぼなんでもあるうちは、おらア希望(註:ノゾミ)断たねえだ。
作造 仁吉、おそえでねえか―ほだほだ、あらね(註:庄内地方のあられ菓
子)でもいるべえ。(立ち上 って去る)
仁吉入って来る。
仁吉 おそうなってすまねえ。
源助 おう仁吉さ、待ってただ。
作造、あらねいりと小鉢を持って戻って来る。
作造 どうしただろって話した処だ。
仁吉 ほんまにすまねえだ、俺アおやじ死なれたで、仕末おくれから今日肥
料入れてしまおうと思ってな。
源助 ほんに仁吉はせいが出んのう、若えに似あわず感心なもんだ。
作造 いゝ嫁早よう貰はにやサ何時迄一人で置かれるもんかよ。(あらねを
いり始める)
仁吉 ハゝゝゝ父っつあん、嫁え貰ったら嬶アの干乾し出来ッぞオー。
源助と作造声を揃へて笑うが、その言葉が冗談でない事に気づくと眞
顔に返って行く。
源助 仁吉さ、おめえの処で肥料どの位え入れただ。
仁吉 肥料け、俺ア田は猫のひてえ(額)位えだけんど、五円(註:米価換算
では約6千円)当りやっとこさよ、一俵なんて及ばねえこんだ。
作造 ほうさ、おれん処じや四円当りにおっつかめえよ、おらが村全体にし
た処で五円当り入れるとこ ろたんとあんめえ。
仁吉 村田みよな、若勢の三郎と、おやじ工面した肥料買う米かつツらって
かけ落しだど、おやじ気狂え見てえに喚えでるってよ。
源助 それァ ほんとけ。
仁吉 うん、来がけに勝うのおっ母アに面ア出したら云っつてただ。
作造 (あらねいりを投げ出して)なんてごった、三郎も三郎だがみよもみよ
だ。おやじほんに気狂えなるべえ。
源助 親不孝野郎だ、あの面して、男の味知っただか、ヘッ、おやじ殺して
も足りながんべ。
仁吉 父っつあん、おらアほん考へさせられただ、馳け落ちだって、ほんに
馬鹿なこったけんどもよ、みよばっかり攻められねえこんだ。
作造 ほうだ、三郎悪りいだ、あの野郎うめえこと云ってだましただ、あの
野郎・・・・・・
仁吉 父っつあん、三郎ばっかりでもねえだよ、俺アこんなこと云うと若え
者に味方だ云うか知んねえけんど、若けもんにして見れば、何一つ楽
しみなるこどねえだ、見てえもの見られるわけでねえ、買いでえ物買は
れるでねえ。ほんだから、間違った考え起すだ。
源助 それも、そうだけんど、どうになんねえこんでねえかよ、悪りい時は
悪りいもんだ、息子取られるし、娘馳け落ちだ。
仁吉 父っつあん、それは、どうになんねえこんだかも分かんねえけんど、
組合でも強くなって、若えもん集めて、間違はねえ智恵つけたら、なン
ぼでも助かんべえ思うだ。
作造 ほうだ、仁吉さ云うこんに間違えねえだ、なんちたとこで組合え大き
くするこんだ。
源助 おらァ良く分かんねえけんど、組合え大きくするこんには不服ねえだ。
俺ア思い出すだ。昨年の争議の前え迄あ、若けえもんも、町に遊びせ
えあまり行かなかっただ。余り遊ぶと仲間アはずされる云うてな。
作造 ほうよ、おらァも昨年の事思うと、裏切った奴等のこと思うと、意地イ
なるだ。――おらア生きだとこで長えことはね、喰う為め斗って監獄さ入
える位え――とな。
源助 ほうだ、裏切った奴等、そ、それ恐しかゝっただ、な、ほんに勝う等の
こと思うたら、そげな恥知らず出来るもんでねえだ。
仁吉 お父う達年取った者が、そう云う気だもん、俺ア達若えもんがどうし
て黙って居られるべえ。勝うも安心して働かれると云うもんだ、(追憶す
る様につぶやく)・・・・・・あの日、町の停車場の便所ン処で云ってただ。
俺ア満州さ行ったら、兵隊の中さ、組合こさへで、戦さやめさせて見せ
るど、村のことは、たのんだでッてな、今頃は勝うもきっと・・・・・・(言葉
がつまる。)
瞬時の間沈黙がつづく。
仁吉 (思い出した様に)おゝえれえ暇取っただ。勝うのおツ母ア話では、
好坊とこ返えした方えゝ云うてただ。
作造 俺ァも、そう考えただ、雇い掛けるって見た所で、婆ァ人置かれる
もんでねえからな。
仁吉 それァそうだけんど、おめん、好江返すにァ金いるべえ。
作造 成程な。
仁吉 其処ン処を、会社に願って、何とか年賦にでもシて貰ふより他に
仕様があんめえよ。
作造 うん、ほうだ、其処はお前え、唯事じやねえ戦さに取られたんだか
ら無理とは云はめえよ。
源助 たゞでも返して貰いてえだが、会社にしたとこで、戦さのためだ云
うた処で、ましやくに合はねえ事はシンめえしな。
作造 そげなこと誰するもんでねえ、とにかく仁吉さ行って話つけて貰う
より道はねえだ。
源助 御苦労だけんど、俺ァ達は会社のもんになんぞとは話もろくに出
来ねえでな。
仁吉 俺ァ行かねばなんめえ、年寄りに苦労かけられるもんでねえ、ほ
んで旅費はどうすべえ。
その時戸口を押し開けて、お兼が飛び込んでくる。三人は驚いて立
ち上る。
お兼 た、田ン甫取りに来ただ。(入口を指差す)
仁吉 おッ母ア、田甫取りに来だど?
お兼 うん、支配人の大井来ただ、勝う居なくなったから、千刈(註:一町
歩ー約1haのこと)は多すぎるがら半分よこせ云うだ。
仁吉 ほうが、畜生、弱味につけ込んで、おッ母アそいで返事しただか?
お兼 しねえだ、誰が誰が田アやられるもンでねえ。
作造 婆ァそんで大井どう云つただ。
お兼 源助居るがア、聞いだがら、しんねえ云ったら考えて置け云って出
て居っただ、そんでおらア走 って来たゞ。
源助 婆ァ、ほんとけ。
お兼うなずく。
作造 おらがァとこへも来ンべえ。
仁吉 とうとうやる気だな。
作造 俺ァ達もっと強けれアな。
源助 そ、それァ、卑怯と云うもんだ。
お兼 勝う、勝さへ居たら。
三人 畜生ッ。
-暗轉-
(第一景終わり。次回は第二景です。ご期待ください)
先に掲載の作品「黙祷(二)」は小林多喜二の虐殺(2月20日)の労農祭の日に特高によって予防拘禁された時に抱いた決意を表明したものですが、この「遺族」は、まさに、「ーだが同志小林よ! 俺たちは必ずこの東北の一隅に君の鉄の意志を継ぐぞ!」、を実践する珠玉の作品であった、と思っています。この作品は三景構成ですので、みなさんからじっくりとご鑑賞願えるように、一景づつ掲載していきます。どうぞよろしく。
遺 族 三景 牧本 進
時 一九三三年五月中旬
所 或る農村
人 母 お兼(註:おかね) 六十近い婆
娘 好江 十九歳
仁吉 二十四歳
源助 五十二歳
作造 四十九歳
宗吉 四十五歳
謹六 四十二歳
茂太 三十二歳
洋服の男 二十七歳
第一景 作造の家
第二景 お兼の家
第三景 お兼の家
第一景 作造の家
炉を囲んで作造と源が話して居る。外は夕方のざわめきに包まれて居
る。
源助 ・・・・・・あの氣丈なお兼婆アも、勝発ってしまうと氣イ抜けた様になった
には驚いたもんだ。
作造 赤(註:徴兵令の赤紙)来た時にはびっくりして、勝発つまでは何だ彼
だで気も立ってたろが、行かれて見ると大黒柱だもんな。
源助 地主の加賀で、祝儀だちンで米一俵よこしたちゆうでねえが?
作造 それがよ、お前え、あたりのもンは組合だちて、なんぼ立っていた所で
貰って見れば有難えだろ って影口ついだで、勝の奴ア怒って婆ア連れて
加賀に返へしに行ったちゆう話だで。
源助 ふゝゝゝ勝も未だ若えからのオ。それにしても村の者は組合、組合って
まるで眼の仇きしてるでねえが。ほんに困ったもんだ。受持ちの旦那で、
組合へ入るど、ろぐなことをどって、ふれて歩くちゆ う話しだし。
作造 ほんに困るどきは組合で、風の吹きよが変るどこんだは眼の仇きだ、
そんでも今に眼さめる時くんべえ、今年あたり肥料(註:コエ)入れねえも
んがおらア村に五六人に出たからな、今年は石灰でもまいて間に合うだ
ろが来年なったらどうすンだで。
源助 お上では自力更生のなんのつて、金肥入れねえで間に合はせろちた
処で、作悪りい事知って、誰が、糞汲む暇つぶされるもんでねえ、そげな
事云う位えなら豆粕でも硫 安でも馬鹿気た値つけんといゝだ。
作造 ほうだともよ、満州国出来た云うから、うんとこさう安うなるべえ思うと
ったらこの態だ。これがお前長びいてみろ、どえれえこんになるど、あろ
うだって来年の肥どうするだ思うと、ほんに咽しめられる思いだ、黙って
居だら百姓ァ飢え死にだもんな。
源助 ほんにさ、俺アもそれ考る、氣狂えになりてえ位えだけんど、組合ち
ゆうもんがなんぼなんでもあるうちは、おらア希望(註:ノゾミ)断たねえだ。
作造 仁吉、おそえでねえか―ほだほだ、あらね(註:庄内地方のあられ菓
子)でもいるべえ。(立ち上 って去る)
仁吉入って来る。
仁吉 おそうなってすまねえ。
源助 おう仁吉さ、待ってただ。
作造、あらねいりと小鉢を持って戻って来る。
作造 どうしただろって話した処だ。
仁吉 ほんまにすまねえだ、俺アおやじ死なれたで、仕末おくれから今日肥
料入れてしまおうと思ってな。
源助 ほんに仁吉はせいが出んのう、若えに似あわず感心なもんだ。
作造 いゝ嫁早よう貰はにやサ何時迄一人で置かれるもんかよ。(あらねを
いり始める)
仁吉 ハゝゝゝ父っつあん、嫁え貰ったら嬶アの干乾し出来ッぞオー。
源助と作造声を揃へて笑うが、その言葉が冗談でない事に気づくと眞
顔に返って行く。
源助 仁吉さ、おめえの処で肥料どの位え入れただ。
仁吉 肥料け、俺ア田は猫のひてえ(額)位えだけんど、五円(註:米価換算
では約6千円)当りやっとこさよ、一俵なんて及ばねえこんだ。
作造 ほうさ、おれん処じや四円当りにおっつかめえよ、おらが村全体にし
た処で五円当り入れるとこ ろたんとあんめえ。
仁吉 村田みよな、若勢の三郎と、おやじ工面した肥料買う米かつツらって
かけ落しだど、おやじ気狂え見てえに喚えでるってよ。
源助 それァ ほんとけ。
仁吉 うん、来がけに勝うのおっ母アに面ア出したら云っつてただ。
作造 (あらねいりを投げ出して)なんてごった、三郎も三郎だがみよもみよ
だ。おやじほんに気狂えなるべえ。
源助 親不孝野郎だ、あの面して、男の味知っただか、ヘッ、おやじ殺して
も足りながんべ。
仁吉 父っつあん、おらアほん考へさせられただ、馳け落ちだって、ほんに
馬鹿なこったけんどもよ、みよばっかり攻められねえこんだ。
作造 ほうだ、三郎悪りいだ、あの野郎うめえこと云ってだましただ、あの
野郎・・・・・・
仁吉 父っつあん、三郎ばっかりでもねえだよ、俺アこんなこと云うと若え
者に味方だ云うか知んねえけんど、若けもんにして見れば、何一つ楽
しみなるこどねえだ、見てえもの見られるわけでねえ、買いでえ物買は
れるでねえ。ほんだから、間違った考え起すだ。
源助 それも、そうだけんど、どうになんねえこんでねえかよ、悪りい時は
悪りいもんだ、息子取られるし、娘馳け落ちだ。
仁吉 父っつあん、それは、どうになんねえこんだかも分かんねえけんど、
組合でも強くなって、若えもん集めて、間違はねえ智恵つけたら、なン
ぼでも助かんべえ思うだ。
作造 ほうだ、仁吉さ云うこんに間違えねえだ、なんちたとこで組合え大き
くするこんだ。
源助 おらァ良く分かんねえけんど、組合え大きくするこんには不服ねえだ。
俺ア思い出すだ。昨年の争議の前え迄あ、若けえもんも、町に遊びせ
えあまり行かなかっただ。余り遊ぶと仲間アはずされる云うてな。
作造 ほうよ、おらァも昨年の事思うと、裏切った奴等のこと思うと、意地イ
なるだ。――おらア生きだとこで長えことはね、喰う為め斗って監獄さ入
える位え――とな。
源助 ほうだ、裏切った奴等、そ、それ恐しかゝっただ、な、ほんに勝う等の
こと思うたら、そげな恥知らず出来るもんでねえだ。
仁吉 お父う達年取った者が、そう云う気だもん、俺ア達若えもんがどうし
て黙って居られるべえ。勝うも安心して働かれると云うもんだ、(追憶す
る様につぶやく)・・・・・・あの日、町の停車場の便所ン処で云ってただ。
俺ア満州さ行ったら、兵隊の中さ、組合こさへで、戦さやめさせて見せ
るど、村のことは、たのんだでッてな、今頃は勝うもきっと・・・・・・(言葉
がつまる。)
瞬時の間沈黙がつづく。
仁吉 (思い出した様に)おゝえれえ暇取っただ。勝うのおツ母ア話では、
好坊とこ返えした方えゝ云うてただ。
作造 俺ァも、そう考えただ、雇い掛けるって見た所で、婆ァ人置かれる
もんでねえからな。
仁吉 それァそうだけんど、おめん、好江返すにァ金いるべえ。
作造 成程な。
仁吉 其処ン処を、会社に願って、何とか年賦にでもシて貰ふより他に
仕様があんめえよ。
作造 うん、ほうだ、其処はお前え、唯事じやねえ戦さに取られたんだか
ら無理とは云はめえよ。
源助 たゞでも返して貰いてえだが、会社にしたとこで、戦さのためだ云
うた処で、ましやくに合はねえ事はシンめえしな。
作造 そげなこと誰するもんでねえ、とにかく仁吉さ行って話つけて貰う
より道はねえだ。
源助 御苦労だけんど、俺ァ達は会社のもんになんぞとは話もろくに出
来ねえでな。
仁吉 俺ァ行かねばなんめえ、年寄りに苦労かけられるもんでねえ、ほ
んで旅費はどうすべえ。
その時戸口を押し開けて、お兼が飛び込んでくる。三人は驚いて立
ち上る。
お兼 た、田ン甫取りに来ただ。(入口を指差す)
仁吉 おッ母ア、田甫取りに来だど?
お兼 うん、支配人の大井来ただ、勝う居なくなったから、千刈(註:一町
歩ー約1haのこと)は多すぎるがら半分よこせ云うだ。
仁吉 ほうが、畜生、弱味につけ込んで、おッ母アそいで返事しただか?
お兼 しねえだ、誰が誰が田アやられるもンでねえ。
作造 婆ァそんで大井どう云つただ。
お兼 源助居るがア、聞いだがら、しんねえ云ったら考えて置け云って出
て居っただ、そんでおらア走 って来たゞ。
源助 婆ァ、ほんとけ。
お兼うなずく。
作造 おらがァとこへも来ンべえ。
仁吉 とうとうやる気だな。
作造 俺ァ達もっと強けれアな。
源助 そ、それァ、卑怯と云うもんだ。
お兼 勝う、勝さへ居たら。
三人 畜生ッ。
-暗轉-
(第一景終わり。次回は第二景です。ご期待ください)
2009年1月14日水曜日
作品の表記について
本ブログに収録する池田勇作の作品はすべて、原作を現代かなづかいにあらため、漢字は常用漢字に変えて読みやすくしました。また、原作で×で表記している伏字はその都度推定して、(註:何)と書き加えてあります。底本通りお読みになりたい方は「魂の道標へーー池田勇作と郁の軌跡」をご覧ください。発表済み作品「黙祷(2)」も今回以上のように手を加えました。読みにくいと思われた方もう一度ご覧くださいますようにお願いします。
2009年1月11日日曜日
池田勇作の妻ー郁についてーその2
郁さんは大正2年(勇作と同年)に鶴岡に近い余目(あまるめと読みます。現庄内町)の大地主阿部善兵衛(十代目、清治)の長女として生まれ、何不自由なく育てられ、小学校では郡(東田川郡)に一人の成績優秀者に与えれれる郡賞をもらうほどの子どもだったそうです。鶴岡高等女学校(現鶴岡北高)を出て、昭和5年東京に向かい日本女子大学校国文学部に入り全寮制の下で新泉寮で過ごし、この間に社会科学研究会に接触したと考えられています。卒業論文「宗門人別改め制度の沿革」を提出して卒業後は伯母後藤好野の落合の家で世話になりながら就職した紀伊国屋書店洋書部に勤務していました。洋書部にはよく宮本百合子が来ていて郁さんは外国文学の新刊をあれこれお世話していたといいます。池田勇作との接点は不明ですが、時期的には昭和12年の早い頃と考えられますが、その辺りに詳しいはずの伯母後藤好野さんがお亡くなりになった今となっては全く手がかりも無いとしか云いようがありません。昭和15年6月25日に夫勇作と共に特高に治安維持法違反容疑で捕まり半年後の12月28日に釈放されますが、当時としては本当に稀なことですが、紀伊国屋書店に復職して勇作の釈放を待ちます。紀伊国屋の社長田辺茂一はそういうことも出来た人物だったようです。勇作には、実は先妻みつとの間に俊一という昭和9年生まれの子どもがいて、彼の本家筋の鶴岡の家で育てられていたのですが、郁さんはこの子のことを大変気にかけていて、昭和16年の春には入学のお祝いに、勇作は取り調べで身動きならない時でしたが、ひとり鶴岡に行き、入学を迎えるこの子に新しいランドセル、心を込めて編んだセーター、そして「ジャックと豆の木」の絵本を届けています。俊一は結婚するまでこの優しい郁さんを本当の母親と信じていたそうです。昭和19年3月13日夫勇作は豊多磨刑務所で力尽き獄死しますが、その遺骨を抱いて俊一の居る池田の本家に行きそこでの内輪の葬式で俊一に父の死を教え、本家の当主勇吉に俊一が長じたらと勇作の羽織袴(昭和14年に挙げた南大塚の天祖神社での結婚式で使った晴れ着。俊一は結婚のときこれを着て式に臨んでいます)を託し、自らがその時着た留袖は何も金銭的に礼が出来ない代わりにと差し出して帰ったといいます。愛する夫を亡くした郁さんはその足で余目の実家に戻り、失意の内に昭和20年8月12日結核で亡くなりました。勇作が獄死した時郁さんは自らの死を受けとめてもいたのでしょう。池田勇作も豊多磨刑務所に下獄(有罪が確定し監獄に収監されることを言います)する時、すでに重い肺結核でしたので、獄死を予感して郁と俊一に遺言をしたため、さらにその心境を辞世の短歌を短冊に記しています。郁さんは、覚悟していた夫の獄死に直面した昭和19年3月13日夫との別れを悲しみつつ、でも愛し続けて夫の傍から離れない魂の声を短歌にして残しています。勇作の辞世の短歌「秋蕭條(あきしょうじょう) 散る草の葉尓(ちるくさのはに) 玉だれの(たまだれの) み奈わさやけ(みなわさやけく) 光りけるかも(ひかりけるかも)」に読者の方は何を感じ受けとめていただけるでしょうか。そして郁さんの惜別の短歌「いく千万里(いくせんまんり) さかりゆくとも 我が命(わがいのち) 君の心は(きみのこころは) 一なるものを(ひとつなるものを)」に愛の絆を知らしめてくれるのではないでしょうか。二人は今も手をしっかり繋ぎあって鶴岡の総穏寺で目を見つめ合っていることでしょう。
次回は池田勇作の作品の戯曲の一つ「遺族」(三景)を、数回に分けてですが、紹介しようと思います。
次回は池田勇作の作品の戯曲の一つ「遺族」(三景)を、数回に分けてですが、紹介しようと思います。
2009年1月7日水曜日
池田勇作の妻ー郁についてーその1
池田郁は夫勇作と共に壊滅状態(昭和10年3月の弾圧で組織的機能停止)の日本共産党を再建しようと昭和12年末から活動をしていました。しかし、同じ仲間の一人、伊藤律からの情報で昭和15年6月25日特高に検挙されてしまいました。郁さんはその年末まで、恐らく残虐な拷問が行われるなかで、特高の取調べを受けた上、不起訴処分で釈放されます。このとき彼女は身体を弱めてしまいます。釈放後、元の勤め先の紀伊国屋書店洋書部に復職し夫の釈放を待ちますが勇作は大審院で治安維持法違反有罪(昭和18年6月22日;懲役2年6月)が確定し、重篤な肺結核でありながら豊多磨刑務所に収監され、昭和19年3月13日喀血獄死してしまいます。失意と結核という病気を連れて、故郷余目(山形県東田川郡、現庄内町)に戻りますが、敗戦の3日前昭和20年8月12日父母の下でさびしく死んでいったのです。この郁さんの生い立ちについては次回、わかっていることを紹介します。ただ、本当に残念なことなのですが、彼女が日本共産党再建運動でどのような活動をしたのかについてはわかっていません。また、彼女の文芸的才能は短歌の世界にあったと、夫の獄死に直面したときに詠んだ惜別の歌(いづれ紹介します)も想像されるのですが、作品集や日記が見つけられていません。どなたか情報があればお寄せください。
2009年1月4日日曜日
訂正があります。ペンネームの表記がちがっていました。
「黙祷(2)」は池田勇作の作品ですがここで使ったペンネームは「浮田新一郎」でした。牧本進というペンネームは今後にご紹介するいくつかの作品で使っていますが、この「浮田新一郎」はこの作品だけに用いています。特高による弾圧(発禁処分)を恐れたのではないかと考えています。ついでですので池田勇作が用いたペンネームには「池田祐策」「牧本進」「浮田新一郎」「生田修」「旗三郎」「最上駿作」があることをご紹介しておきます。以上、お詫びして訂正いたします。
2009年1月3日土曜日
日本プロレタリア作家同盟山形支部準備会機関紙「荘内の旗」
前回紹介の「黙祷(2)」は「荘内の旗」に発表したものでした。そこで「荘内の旗」についてご紹介しましょう。この雑誌は牧本進というペンネームを持つ池田勇作が昭和6年鶴岡に立ち上げた「日本プロレタリア作家同盟山形支部準備会」の機関紙なのです。昭和8年3月15日に第一巻第一号が創刊されました。しかし、この創刊号は特高(特別高等警察官のこと)によって持ち去られてしまいました。多喜二のための労農葬を鶴岡でさせないために池田勇作を拘留したついでに。第二号は池田勇作が3月15日の拘置から釈放された(何日に釈放されたかは不明)後4月半頃に発行されたはずです。そこには浮田新一郎作「黙祷(1)」が載っていたはずです。でも、この号は見つかっていません。いくら探しても鶴岡の図書館の歴史資料にも国会図書館にもないのです。たった一冊の第三号が見つかった泉流寺(斉藤秀一:池田勇作を信頼する僧侶で言語学者・エスペランティストで治安維持法犠牲者)にもありません。そんな分けで「荘内の旗」は第一巻第三号(昭和8年5,6月合併号)のみが、しかもこの一冊だけが、今に、池田勇作の魂を伝えてくれているのです。幻となった「荘内の旗」第二号に投稿されたペンネーム浮田新一郎作「黙祷(1)」の内容を思い浮かべながら「黙祷(2)」をじっくりとお読みいただけると幸いです。
次回には池田勇作の奥さん、池田郁についてご紹介させていただきます。
次回には池田勇作の奥さん、池田郁についてご紹介させていただきます。
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