郁さんは大正2年(勇作と同年)に鶴岡に近い余目(あまるめと読みます。現庄内町)の大地主阿部善兵衛(十代目、清治)の長女として生まれ、何不自由なく育てられ、小学校では郡(東田川郡)に一人の成績優秀者に与えれれる郡賞をもらうほどの子どもだったそうです。鶴岡高等女学校(現鶴岡北高)を出て、昭和5年東京に向かい日本女子大学校国文学部に入り全寮制の下で新泉寮で過ごし、この間に社会科学研究会に接触したと考えられています。卒業論文「宗門人別改め制度の沿革」を提出して卒業後は伯母後藤好野の落合の家で世話になりながら就職した紀伊国屋書店洋書部に勤務していました。洋書部にはよく宮本百合子が来ていて郁さんは外国文学の新刊をあれこれお世話していたといいます。池田勇作との接点は不明ですが、時期的には昭和12年の早い頃と考えられますが、その辺りに詳しいはずの伯母後藤好野さんがお亡くなりになった今となっては全く手がかりも無いとしか云いようがありません。昭和15年6月25日に夫勇作と共に特高に治安維持法違反容疑で捕まり半年後の12月28日に釈放されますが、当時としては本当に稀なことですが、紀伊国屋書店に復職して勇作の釈放を待ちます。紀伊国屋の社長田辺茂一はそういうことも出来た人物だったようです。勇作には、実は先妻みつとの間に俊一という昭和9年生まれの子どもがいて、彼の本家筋の鶴岡の家で育てられていたのですが、郁さんはこの子のことを大変気にかけていて、昭和16年の春には入学のお祝いに、勇作は取り調べで身動きならない時でしたが、ひとり鶴岡に行き、入学を迎えるこの子に新しいランドセル、心を込めて編んだセーター、そして「ジャックと豆の木」の絵本を届けています。俊一は結婚するまでこの優しい郁さんを本当の母親と信じていたそうです。昭和19年3月13日夫勇作は豊多磨刑務所で力尽き獄死しますが、その遺骨を抱いて俊一の居る池田の本家に行きそこでの内輪の葬式で俊一に父の死を教え、本家の当主勇吉に俊一が長じたらと勇作の羽織袴(昭和14年に挙げた南大塚の天祖神社での結婚式で使った晴れ着。俊一は結婚のときこれを着て式に臨んでいます)を託し、自らがその時着た留袖は何も金銭的に礼が出来ない代わりにと差し出して帰ったといいます。愛する夫を亡くした郁さんはその足で余目の実家に戻り、失意の内に昭和20年8月12日結核で亡くなりました。勇作が獄死した時郁さんは自らの死を受けとめてもいたのでしょう。池田勇作も豊多磨刑務所に下獄(有罪が確定し監獄に収監されることを言います)する時、すでに重い肺結核でしたので、獄死を予感して郁と俊一に遺言をしたため、さらにその心境を辞世の短歌を短冊に記しています。郁さんは、覚悟していた夫の獄死に直面した昭和19年3月13日夫との別れを悲しみつつ、でも愛し続けて夫の傍から離れない魂の声を短歌にして残しています。勇作の辞世の短歌「秋蕭條(あきしょうじょう) 散る草の葉尓(ちるくさのはに) 玉だれの(たまだれの) み奈わさやけ(みなわさやけく) 光りけるかも(ひかりけるかも)」に読者の方は何を感じ受けとめていただけるでしょうか。そして郁さんの惜別の短歌「いく千万里(いくせんまんり) さかりゆくとも 我が命(わがいのち) 君の心は(きみのこころは) 一なるものを(ひとつなるものを)」に愛の絆を知らしめてくれるのではないでしょうか。二人は今も手をしっかり繋ぎあって鶴岡の総穏寺で目を見つめ合っていることでしょう。
次回は池田勇作の作品の戯曲の一つ「遺族」(三景)を、数回に分けてですが、紹介しようと思います。
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