2009年4月19日日曜日

池田勇作は当時「スポーツ」をどう視たか-その3

ちょっと小忙しくてプロレタリアスポーツ(三)のお披露目が遅れてしまいました。お待ちの方もおられたと、思いたいのです、考えると申し訳なくて。ところで、今回の(三)には伏字がいくつかあります。どうも自信がなくて解説できません。何方か答えをお聞かせ下さい。


   プロレタリアスポーツ  (三)            池田祐策

 さてブルジョアスポーツの正体が大体解った。そして、これと対立するプロレタリアスポーツの存在が、当然でもあるし、又社会的存在の必然性も此処にあるのだ。
 恰もブルジョアジーが発生すると同時にプロレタリアートが存在したように――然るに吾々は現在迄余にプロレタリアスポーツの確立に無関心すぎて居た。今や満州に於ける○○ブルジョアジーの××××を契機として、全文化はことごとく急激に反動化した(註:○○、××××の伏字は解りません。何方か教えて下さい)。ラジオ、出版物、映画、演劇、其他の文化団体は、全く、文字通り滅茶苦茶に××を宣伝し、大衆に好戦心を強いて居る(註:××の伏字は何でしょう)。これは実に、資本主義それ自身の内包する矛盾に依る崩壊せんとする断末魔の醜いアガキである事は見逃してならないし、それ等への精力的な抗争を続けねばならないのだ。
「赤い思想を防ぐのは、スポーツを盛にやらせる事だ」と幾度お偉い(?)方々に依って言われて来た事か、又今後も増々云うであろうし、ブルジョアスポーツの陣営は拡大されるだろう。その中に吾々はハッキリとブルジョア制度の××(註:崩壊か?)が増々切迫した事を認識するばかりでなく、積極的な攻勢に出なければならない。
 工場農村を中心とした自主的スポーツ団の確立、これは芸術(文芸、演劇、映画、美術、音楽等)サークルと同じ様に、スポーツ愛好者の間に当然に組織されねばならない。現在程此の事が強調された事は今迄にない。
 そこで、スポーツサークルの問題であるが、細かに述べる紙数を持たないからあらましを述べよう。
 此のスポーツサークルを工場農村を中心として作る事は勿論であるが、吾々は運道具や時間等で苦しまねばならないし、之を如何に解決するかが問題だ。先ずスポーツをやろうと云う人達が出来たら、その人達が中心となって運道具や、時間を与えろと会社や(地主が支配している)役場に向かって要求する。此の場合数人で要求したんでは駄目だから、出来るだけ多くの人を集める。場合に依っては、経済的な要求と結びつけてやるのも効果的だろう。
 こうして兎にかく困難であるが、要求が通ると、資本家や地主は、すぐ、此のことを恩にきせて来るであろうが、之に絶対にダマされてはならない。何処までも自主的にやって行くべきだ。
 このようにして吾々はスポーツサークルを広汎に作って行かねばならない。
 今年の七月に、アメリカのロスアンゼルスで世界の資本家達の催しでオリンピックがある。日本からも選手が政府の金で行くだろう。然しこの大会にはロシアの選手は参加出来ないのだ。それでもわかる様に此のオリンピックは労働者農民の為の催しでは決してないのだ。
 そこで、此のオリンピックに反対して、真に労働者農民のオリンピックを開こうとアメリカの労働者の提唱に依って国際労働者競技大会を開く事となり、
▽ 労働者農民に運動体育の自由を与えろ!
▽ 学校、教育の運動設備を労働者に無料で解放しろ!
▽ 当局の費用負担で労働者農民居住地域に体育設備を増設しろ!
▽ 資本家の国際オリンピック反対!
▽ ソビエート同盟××反対!
▽ 国際労働者協議大会万歳!
のスローガンをかかげて、ソビエート同盟、ドイツ、フランス、日本、中国等世界各国の労働者農民の参加を希望して居る。
 この催しを契機として、吾が国に於けるプロレタリアスポーツの立ち遅れを批判すると同時に立ち遅れ克服への新しい道を打ち建てねばならない
                                     (終)

 これで三回に渉って公開しました池田勇作のスポーツ論を終わります。当時の世界のスポーツ事情もわかりましたし、現代にも通じるところがたくさんあったんだ、とも思いました。
 次回からは「時代」という雑誌(これは昭和8年にかれの友人。梅木米吉と荘司徳太郎の3人で創刊した文学雑誌です。今後もう少し詳しく紹介します)に載せた自伝的小説の「少年」を数回に分けてお読みいただきます。お楽しみ下さい。

2009年3月19日木曜日

池田勇作は当時「スポーツ」をどう視たか-その2

プロレタリア スポーツ
                 (二)

「ブルジョアスポーツの正体」
 一体ブルスポーツとはどんなものかと云うに、一寸考えると金持ドラ息連が、遊戯としてやって来たものの様に思える。勿論これもブルスポーツ(註1)であるが、然しそればかりではない。小学校、中学、高等学校、大学其他実業学校等のスポーツは皆ブルスポーツであり、労働者のやって居るのでさえもブルスポーツがある。此処が一番大切な処だ。近来支配階級は盛んにスポーツを宣伝し、工場などでも道具を与えて野球なんかやらせて居るものが相当多い。然し、吾々の為には一銭だって多く出そうとしないばかりか、不服を云えば、遠慮なく馘にしてしまう支配階級が、何故高い金で運道具を買ってあたえるのであるかと考える必要があるのだ。彼ら支配階級は道具を与えてスポーツをやらせたりして、労働者や農民の不平を忘れさせ様とする意図である事を見抜かねばならない。例えば、何々工場野球団なんて云う奴を造って社長が会長で、盛んに野球をやらせる。そして、一番上手な奴には特に報酬を与えたりして、「野球さえうまくやれば幾らでも給料を上げてやる。だから不平なんぞ云はないで野球でも一生懸命やれ!」と云はぬばかりだ。俺達はこんな手管にダマされてはならない。こんなブルスポーツを粉砕して、吾々の自主的な、一人や二人の上手な奴を作る為でなく。労働者農民の団結を一層固くする為のスポーツ団を作らねばならないのだ。
 次に、ブルスポーツを良くバクロして居る一、二の例を上げて見よう。昨年あたり、慶大の名投手を××会社で雇い入れる為に二十人の職工を馘にしたと云う事実があった。こんな選手一人の為に労働者が二十人も馘になる。それに宮武(註2)の給料は三百円とか五百円(註3)とか云う。次に極く最近の話だが、山形県下の労働者、農民の勇敢な働き手が奪われた時(註4)、誰だったか偉い方(?)が、こう云う事を防ぐにはスポーツを盛んにするに限ると云って居った。
 之で見ても新聞紙上彼等の魂胆はスポーツで労働者農民の激しい奴等への憎しみをまぎらはせようとして居る事がハッキリ解るではないか?
                     (つづく)

註1:ブルジョアの略称としてよく使われる。例:商業新聞を「ブル新」と呼ぶ
註2:昭和初期に六大学で大活躍した宮武三郎のこと。慶応大野球部の第一期黄金時代を水原茂、三原脩とともに作り上げた名投手で強打者でした。卒業後は「東京倶楽部」を経て出来たばかりのプロ球団阪急に入団し大活躍した人物です。
註3:当時の労働者はこの十分の一から二十分の一程度の給料でした。
註4:昭和6年には、2月に山形県北村山郡小田島村で小作争議があり総計150名を越す逮捕者を出した「小田島事件」と8月には池田勇作と深い親交のあった「平沢文四郎」ら24人が検挙される「左翼文化活動グループ事件」がある。また、12月には佐久間次良ら11名が「全農全国会議山形評議会共産党事件」などがあります。池田勇作がここで例に」挙げた事件は恐らく平沢らの左翼文化活動グループの検挙をいったものと思われます。

2009年3月11日水曜日

池田勇作は当時「スポーツ」をどう視たか-その1

                                                                                   




















「荘内春秋」新聞の昭和7年3月15日発 行(第7号)に池田祐策名で発表した池田勇作の、当時鶴岡でも非常に関心が持たれていた野球というスポーツについての、啓蒙記事をご紹介します。「野球」はイギリスの「タウンボール」という遊びがアメリカで変化・発展して1842年統一ルールが作られて全米に広がった、といわれています。日本には1871年(明治4)に旧制第一高校(現東京大学)に赴任したアメリカ人教師が広げた。昭和7年(1932)当時は、プロ球団は無い時代で、東京6大学リーグがラジオ放送を通して日本中を沸かせていました。鶴岡では旧制中学の対抗試合が市民の注目を集め、特に鶴岡中学(現鶴岡南高校)と鶴岡工業専門学校(現鶴岡工業高校)の対抗戦に人気が集まったといいます。全国的に野球の人気は高まる一方でしたが、町の空き地で、あるいは公園で普通に子どもたちが、また職場の労働者がキャッチボールをしたりバッティング楽しむ姿はありませんでした。野球だけでなく、例えばスキーなども都会の学生など限られた人間(ヒッコリーの高級な板スキーなどを持てる階級の)のスポーツでした。雪だらけの鶴岡でも、子どもたちは下駄スキーで遊びますが、多くの人たちには雪は生活の邪魔者に過ぎない存在でしかなかったのです。そこで、池田勇作の問題提起を、当時のこうした状況を背景として頭に浮かべながら、聞いてみましょう。今回を入れて3回に渡ってお届けします。例によって、是非感想・質問などお願いします。

プロレタリア スポーツ                     池田 祐策

                (一)
 だんだん暖かくなると、彼方此方で、白いユニホームが眼につく。
「打ちました打ちました打ちました、ヒット、ヒット、遊撃手の頭上を抜くヒット、レフト懸命に駆けて居ります・・・・。」ラジオの野球放送が始まると、四十がらみの大人迄立ち聞きをして居る。小僧さんなどは、主人の使いも忘れて、自転車を止めて、聞き入って居る姿を随分見受けられる。

 「スポーツをやって来た人達はどんな人々か」
 この様に面白く、愉快なスポーツをやって来た人はどんな人達か。先ず第一に、スポーツをやるには金がかかる。殊に野球などは一揃い、安く見て、八九十円から百円(註:約十万円ほど)はかかる。其他の、スポーツにした処で、夫々相當の金が必要だ。此の点殻見ても、金のないものは、スポーツはやれないと云う事になる。
 其上、労働者や農民(小作人)には、スポーツをやる丈の時間がない。工場では、早朝から夜おそく迄労働を強いられ、農民は終日働かねば、(作った米の五割、六割を地主に納めなければならないので)生活が出来ない。
 縦令(註:たとい)、日曜の休みがあっても此頃の労働強化に、體(註:からだ)は綿の様に疲れ切って居る。スポーツをやるより、ゆっくり休んだ方が良いと云うことになる。それで今迄は、殆ど、中産階級以上の人達に依って、独占されて来た。金持ちの息子達(主に学生)が、自分達の特権物の様な面をしてやって来た。

 「スポーツは労働者農民に許されないか?」
 それなら、スポーツは金持ちの息子達にのみ許されて、労働者農民には許されない、ものであろうか?若しそうであったならば、スポーツと云う形式が矛盾したものとなる。労働者、農民だって、スポーツをやり度(註:た)い。
 他の者がやって居るのを見たり、ラジオで聞いたりすると、腕が鳴って来る。――おいらだって、ホームラン位い、カッ飛ばせるぞ。全くだ。労働者や農民の、鉄の腕で打ったら、球が、すごいスピードで飛ぶだろう。殊に、體の不均等に発達し易い終日くらい誇りだらけの工場に、おし込められて居る、労働者等に取っては最も必要であるのだ。其処で、近頃は工場等にみ、職工が積極的にスポーツ団を作り出した。ブルジョアの独占や幾多の悪条件をヶ飛ばしながら……

(第1回:昭和7年3月15日付発表記事)

2009年3月3日火曜日

お知らせ

今回は「荘内春秋」新聞の昭和7年に載せた「プロレタリア スポーツ」記事の予定でしたが、現在娘夫婦が二人の可愛い孫を連れて里帰り中で、孫と娘が可愛くて外に何も出来ない状態。そんな訳で、来週半ばまでお休みを下さい。3月12日に活動再開します。どうぞ、お許し下さい。

2009年2月23日月曜日

農民は何を叫んだ! (「荘内春秋」新聞投稿記事)

                                                                 旬刊新聞の「荘内春秋」
が発刊されたのは昭和7
年1月15日でした。      
勇作はこの時18歳ですが編集助手として入社。以後次々と記事を書き続けます。この年5月にはメーデーで活躍し、ついに発行者小澤浩の新聞を去ります。上の写真は記念すべき第一号、右は第7号(3月15日発行)に出た「農民は何を叫んだ!」の記事。なお、この新聞は鶴岡在住の詩人で著名な畠山弘さんが「こんな新聞があるよ」と見せてくださったものです。そこには、池田勇作の活動の出発点が見事に残されていて、大変貴重な発見となりました。感謝。




     農民は何を叫んだ!……東郡弁論会批判         牧本 進 


去る十三日庄農講堂で行われた、東郡聯合青年団弁論会を聴いた。此の農村青年の叫びにたいする感想、批判を述べてみよう。

(註:「庄農」は庄内農業学校のことで現庄内農業高等学校。
「東郡」は東田川郡の略称)

 先づ第一に、主催側の青年に与えた題目をみると次の如くであった。
甲、我等の青年団は斯くありたい。
乙、現下の農村に於いて憂うべきもの。
丙、日支問題と我等青年。
 此の題目は何れも、現下の農村青年に取っては現実的な問題であり、主催者側の意図であろう処の農村青年の思想を聴くには充分な題目と云えよう。
 此の題目の中、乙丙が各拾名で、甲が四名であったが、此の小さい統計の中にも、好戦国民になれ!との支配階級のアジプロが、効果を挙げて居る事実が覗(読み:ウカガウ)われる。そして、此の、丙の問題に対する農村青年の叫びは、何れを取っても新聞記事的戦況報告、及び、支配階級のアジプロに対する、青年的な軽薄な興奮以上に一歩も出て居ないことである。

(註:「日支問題」は日本の支那つまり当時の中華民国に対する侵略戦争=1931年9月18日に鉄道爆破を引き金に引き起こした、所謂「満州事変」についてという意味。なお、支那という呼び名は欧米が中国を秦国に由来のchinaと呼称したのを当時の日本は利用して属国扱いの漢字名で呼称していた。当然のことではあるが、敗戦以降は使わない。いや、使うことを許してはならない。
「アジプロ」はアジテーションとプロパガンダの合成略語で煽動・宣伝の意)

 今や日支戦争を、吾々は、生活の苦しさ、世界的恐慌と切り離して考えることは絶対に不可能であり、根本的な間違いである。然るに、此の問題を取り上げた弁士達は、何れも、全く勇敢にも、現在の農村恐慌と全々切り離して此の事を問題にして居るのだ。
 例えば、苦しい小作の生活の中から、戦争に動員されて行く兵士の事、働き手を奪われた家族の増々苦しい生活、等に対しては一言も触れて居ないし、此度の戦争が、如何なる世界的情勢の下に、如何なる意図を現すものであるか等を深く突込んで批判して居る者も見当らなかった。

 (註:「小作」とは地主から耕作地を借り、小作料(収穫の4割前後)を払ってその土地を自分で耕し、農業を営むこと。また、その人。戦前は一握りの大地主がいて、農民の大部分は小作で、生きるか死ぬかの貧乏生活を強いられていた。)

 乙の問題も、前の如く、戦争と切り離し、単に独立した問題として取り扱って居る処に大きな間違いがある。
 又、東北、北海道の飢餓に対して同じ農民として言及した者は唯一名にすぎなかった。そして大部分は、現在の農民の窮迫、その打開策を抽象的、概念的に取り扱っている。吾々は苦しい、吾々は起たねばならぬ等の言葉を朗読するに過ぎなかった。そして、何の為に農民(主に小作)は苦しいのか、どうして凶作は起きたか?等を具体的に取り上げて、それを打開するにはどうすれば良いかと云う事を全々考えて居ない(封建的地主制度、それを存続せしめ様とするブルジョアジーの政策を××しなければならないのだ)。

  (註:××の伏字は「打破」とか「排除」などが考えられる)

 甲の問題に対しても全く同じだ。
 そこで吾々は、この弁論会に於ける弁士の叫びが果たして農民(地主以外の)自身の叫びであったかと云う事を考えなければならない。
 第一に弁士の過半数は、自作農以上の者ばかりで、此の弁論会が極度に抑圧されたもので農民の自主的な会でない。農民の真の叫びは意識的に弾圧されるのだ。その為に、これ等の叫びは、真の農民のではないのだ。然し、単に農民の真の叫びでないからと放棄することは出来ない。吾々は如何に反動文化(雑誌、ラジオ、映画、劇)のアジプロが農村青年を害して居るかと云う一面を見落としてはならないのだ。そして、之等の反動文化の影響から農民を引き離して吾々の正しい文化を押し進めねばならない。それは唯、反動文化との決定的な闘争に依ってのみ可能である事を知らねばならぬ。
                                                         (完)

 これが18歳の若者の記事なのですから驚きです。最後のところで、プロレタリア文化運動で「闘争」し封建的地主制度から小作農を解放しようとする想いが打ち出されていて感動さえします。
 次回は、やはり「荘内春秋」からスポーツの階級性についての啓蒙記事をご紹介します。

2009年2月17日火曜日

お知らせ(2009.02.17)

「池田勇作」に関する調査で明日から数日の間旅に出ることをお許しください。来週の月曜日(2月23日)に新聞への投稿記事「農民は何を叫んだ! ・・・・ 東郡弁論会批判」をお伝えしたいと考えています。この牧本進名の作品は既刊の「魂の道標へー池田勇作と郁の軌跡」にも記載されていないものです。ご期待ください。

2009年2月10日火曜日

小説「女工」-その2

 註 「荘内新報」昭和8年3月21日付の記事:愛国山形号という戦闘機を二機
も労働者に、税金以外にも国の戦争遂行に協力させるために「山形」でも岩手
や 福島、全国どこでもやったように「軍用機を県民の力で寄付で買って天皇の
軍隊 で使ってもらおう」という官製の声を作り上げこれに応じないものは非国
民呼ば わりして労働者のなけなしの給料から更に収奪を強行し、上の新聞に
よれば十 万円(約1億円相当か)以上集めて二機買い求めたのであった。
 それでは、小説「女工」の続きをお読みください。

   (二)

 午後の工場は操音をぬう様に「愛国山形号」(註:上の新聞記事参照)の話が
飛び散って居た。
 みんなは汗をふきふき手を休めづに口から泡をとばした。山中から出て来た豊
乃と云う十七になったばかりの娘は、口を蛸の様にとげて、得意になって叫んで
居た。
「飛行機二台、くッどオー。ちうげえりや、きのはげえすもすッどオーやアー。すん
ぶんさ、けえであったどうオー。」
 そして「オッととど」と、あわててハタを止めた。
 子持ちの年寄達は学校で子供等が「愛国山形号万才」と字のかっこうに列を
造 るそうだと云うことや、何処の町会では幾ら寄付したとか、「今間様」(註:鶴
岡にあった農機具メーカーの前身今間機械の社長)では千 円(註:約百万円
相当であろう)も寄 付したとか云うことを、自分のことの様な顔で話し合った。
そんな話は お終い迄行 かないで、きっと途切れた。その度にハタが止った。
 マサ江はお昼前よりも一層苦しかった。体が苦しくなると盛に糸が切れた。
夢中 でギアーを引いて、指先をなめては糸を結ぼうとするが、糸がボヤケて思
う様に ならなかった。いらいらして唇をぎっと噛むが糸が十本にも二十本にも
見えた。 「あさ」にはしよっちゅう新しい「くだ」を入れ替えねばならなかった。そ
れが三台 だから堪らない。一台を結んで居るうちに次の奴が切れたのを知ら
ずに居ると、 せっかく織れたのを、丹念にほぐして結ばねばならなかった。そ
んな時には「此の まま倒れてしまった方がいい。」とも思ったりしたが、フッと腎
臓で床について居る お袋の顔が頭に浮ぶと、「これではいけない」と足をふん
ばった。
「愛国号の羽根のチヨッピリぐれえは、おらアたちのもんよオー。」
 誰かが叫んだので皆んな声の方を向いた。ミチ子と話して居る事のある芳江
だった。
 マサ江は芳江の言葉の意味が解った様な解らないような気持ちでブルルンと
頭を振った。そして、
「春代さアん、窓あけてくんない?」
 と隣の春代に云ったが、力のぬけた彼女の声は、三間と離れない春代にとど
かないで繰音にかき消された。
「マサちやん、なアーにーよオ―?」
「窓、あ、け、て、く、れ、な、いーって云うの。」
「ああ窓?広田(監督)の奴に、が鳴られっぞオ―。」
 春代は男のような言葉で、いけないと手を振った。
「いいから、あたし、とてもこらえられないのオー。」
 マサ江はそれだけ云って下ッ腹がヘトヘトになった。
「駄目、駄目、あたしがどやされんだから、あの助平野郎にサアー。」
 マサ江はあきらめて黙った。
 春代は結んだ糸のはしにほっぺたをくっけて、カチンと噛み切った。
「チエッ、糸が悪いのに、糊つけまでこんなざまだ。」
 糸の切れるのはマサ江だけでなかった。みんな後れ毛をなで上げては指先を
なめた。それでも皆は出来るだけ自分の糸のきれるのをかくした。唯、割に若い
女工根性のしみてない娘はブツブツ不平を鳴した。中には泣く娘さえあった。そ
んな時には大部分の者がせせら笑った。他の者が糸の切れて困って居るのを
見て小気味よく思った。
 出来高払いで、皆んなの競争心をそそって能率を上げ、女工の団結を防止し
ようとして居る会社の策動には気づかずに、ただやたらに意地ッ子になって居た。
「自分さえ多く織れば、……。」みんなそう云う気持ちだった。
 マサ江は織り出される純白の絹地が自分の頭に覆おいかむさって来た、と思
うとボーッと目先がかすんで、クラクラッとめまいが来た。夢中でハタを止めると、
其の上にうつぶしてしまった。
「マサ江さアーん、どうしたアー。」
 周囲の者が驚いて声をかけたが、すぐそつくさとハタに手をはこんで、側に来
て労わろうとする者はなかった。
 その時、廊下の方から広田がげびたしわがれ声でが鳴りながらやって来た。
「おめえらアー、愛国号オーもうぢき来るでエー、屋根に上れエー、万才やるん
だぞオー。」
 キヤツ金切り声が上った。繰音はピタリと止んだ。女工はワイワイ廊下の方
に流れた。
「このオあまアー、サボリあがってエー。」
 マサ江はハツとして体を起した。見ると監督の広田が、眞裸にズボン一つで、
つっ立って居た。マサ江は蛇に向はれた蛙の様に肩をすぼめて頭をペコンと
下げた。
「す、み、ま、せ、ん。」
 それだけで精一ぱいだった。
「このあまアー、織れねえと思ってだらサボリあがってエー、今日はビリだぞっ」
 マサ江は月末に貼り出される成績表の事が頭に浮んだ。本当にビリにされた
ら、それこそ女工仲間からは「のけもの」にされるし、成績がよくても二三ヶ月は
ビリで居なければならなかった。それに成績は殆ど監督の意志で決められた。
「持ち物」(贈りもの)をよくすればどうにでもなった(マサ江は、そんな事は決し
て良い事でもないし、自分などは出来ない事だと考へて居た。)が此の場は、あ
やまるより外になかった。
「体ア、具合悪いもんで、……。」
「具ぐ合えエーわりイ?手××××(註:卑猥な隠語を伏字にしたのであろう)した
だろう、マサア、おらアと今夜どうだ。」
 広田はマサ江の肩をグッと引き寄せようとしたッ。
「バ、バカアッ」
 マサ江は広田の太い腕をはらうと夢中で皆の後から走った。
 後の方で、かすかに広田の罵声が聞えた様な気がした。
「マサアーおぼえてろーツ」
 非常出口を出るとフーフー息を切らして梯子に足をかけた。足はピツと張って、
膝を折る度にピリツ、ピリツとしびれる様に痛んだ。中程迄上った時、拍手と万
才の声がドッと起った。
――ばアん、ざアーい。
――ワアー
 梯子をぎっしり握ったまま、マサ江はその声に、ひどく自分が侮辱された様な
気がして、急に泣き出しそうな顔をした。それが何故だか自分にも分らなかった。
そして、ソッと「ミッちやァん!」と大声でミチ子を呼んでみたい衝動にかられた。
 愛国山形号が再び女工達の頭の上に来ると、みんなはもう一度、「ば、ん、ざ
ァーい」と叫んだ。女工達は、片づをのんで「宙返り」や「木の葉返し」を今か今か
と待って居たが、西の山のてっぺんに、黒い点の様に消えると、飛行機は再び
戻って来なかった。
 みんなは変に空虚な気持ちになった。だまされた様な気もして訳も解らずに興
奮して大声を出した事が馬鹿らしくなった。皆んなの目は何処を見るともなく第二
工場の屋根に白墨で書かれた、「祝山形号」「健斗を祈る」の眞白な大字と新し
い三畳敷き位の「日の丸」の旗にそそがれて居た。
 その目は忿懣に燃えて居た。
                                          ―未完―
                                   一九三三、五、二三
              『庄内の旗』第壱巻第参号(昭和八年六月十三日発表)

2009年2月4日水曜日

小説「女工」-その1




小説「女工」は池田勇作が牧本進のペンネームで、先に紹介した雑誌「荘内の旗」に発表した作品です。右にその作品の一部をコピーしたものを紹介しています。下の頁の挿絵はmakiとサインがありますので勇作が書き入れたものです。上の、窓から手を振る絵も、まづは、勇作の描いたものと思われます。この雑誌が発行されたのは昭和8年6月です。この頃は斉藤秀一や荘司徳太郎などのかつての仲間も弾圧の嵐の中で心ならづも社会運動から身を引いてい
ていて、プロレタリア文化運動は鶴岡ではほとんど勇作一人でやっていた、と思われます。したがって、この雑誌のガリきり(註:ガリ版印刷の用語で、文字や絵を鑢の上で鉄筆を使って表面がロウで覆われている印刷用原紙からロウを擦り取ってそこからインクがにじみ出るようにする作業のこと)は、多分、一人でやったと思われます。先に紹介した表紙もmakiのサインがありますし、すべての頁の字体は同一ですので間違いないでしょう。それでも、頼めば寄稿してくれる人が何人かはいることに励まされ、自からも三つの作品(黙祷二、女工、山田清三郎訪問記)を載せ、他に、署名はないが彼にしか書けないと考えられる報告文などもあって、まさに獅子奮迅の活躍ぶりが見えてきます。
 この雑誌が発行された昭和8年は、昭和4年に始まる経済恐慌の影響がより一層庶民の生活を圧迫し続けていて、失業者は数百万人、当時米作が全てという東北では冷害が大凶作を引き起こしたことも重なって娘を売春の地獄に売り飛ばす事例が続出するという悲惨な社会状況でした。軍国主義の天皇制政府は満州事変を引き起こし中国に傀儡政権の植民地・満州国をでっちあげて資源を奪い、土地を中国農民から取り上げ、北海道・東北・信越の農民の不満のガス抜きに満蒙開拓団を30万人も送りこんだ時代です。工場労働者のストライキには警察だけでなく軍隊すらつぎ込んで弾圧し治安維持法違反としてその指導者など中心人物を昭和6,7,8の3年間で4万近くも投獄しています。それでも政治批判の運動は絶えることがなかったのです。池田勇作はその時代に鶴岡で、彼の文学で戦っていたのです。「女工」の主人公は当時鶴岡の産業の中心だった絹織物工業で働く織り方の女性労働者です。鶴岡市内には織物会社が20社程あり女工数は2000人にもなっていました。その労働条件は劣悪そのものでしたし、工場環境も」最悪でした。
 あまり前置きが長いと面白くなくなってしまうかもしれません。この続きは「女工」が終わったところで、ということにして、まずは「女工」を紹介します。2回分けてお読み願うことにします。
                   女  工                 牧本 進
   
             (一)

  今から、こんなに暑かったら、機械(註:ハタと読む)の前でブツ倒れる者が毎日出るかも知れない。マサ江は三台のハタの間を、つんのめるように行き来しながらそう思った。
 未だやっと五月の半なかば過ぎなのに、眞夏のような太陽がトタン屋根を通して、三棟の亀岡織物株式会社第二工場をうだらして居た。ガ―ツと云う連続的な繰音と一棟に人のひといきれが、空気の通はない工場の中にムンムンと立ち込めて、にえくり返るようだった。誰もかも、よごれたハンケチや手拭で盛んに顔をふいた。拭っても拭っても、目といわづ口といわづ、しよっぱい汗が流れ込んだ。みんなはフウフウ云ってハタの間を歩き廻つた。
 マサ江は頭のシンが、ヅキンヅキン痛んで、時々ブルッツと全身に震いが来た。その度自分はこのまま倒れるのでないかと思った。脂汗で体がべトべトした。ボーが鳴ると、さつきからそればかし待つて居たのでホツと救はれた気がした。そしてすぐハタを止めようとしたが、ためらって周囲を見た。向うの方で二三人止めたのを見るとマサ江は思い切って止めた。
 女工達は一時間の晝休みも三十分はハタを止めなかった。出来高払だし、単価が二三年前から一錢も上らないので、一分でも余計に働かねば暮しに追ツっかなかつた。殊に腕の悪い女工や夫の持って居る女工は、ホンの晝食を食う時間だけハタを止めた。
 マサ江は弁当をひろげたが喉に通りそうもないので、ミチ子を誘って外へ出ようと思って第二工場の方に行くと、便所の入口の黒板に大勢集つてワイワイさわいで居た。
 ミチ子がマサ江を見つけて人だまりから出て来た。
「マサ江さん、愛国山形号来るんだって。」
 とニコニコしながらそう言って、マサ江の元気のない顔に気がつくと、
「どうしたの、どっか悪いんぢやない?」
 と心配そうにたづねた。マサ江は少し気分が悪いから外へ出ようとうながした。ミチ子はすぐ応じてくれた。ひとだまりの中で原料部の房江が、
「本日午后二時三十分から五十分迄二十分間、愛国山形号歓迎の為休憩する。合図したら直ぐ屋上に上れ、但し合図までは絶対に仕事怠らぬことォー。」
 と主任の大井の声色を眞似て黒板の記事を読み上げたので、ドツと笑い声が起った。
 二人は、寄宿舎と第三工場(原料部)とに挟まれた空き地の、紅葉の木の下に腰を下した。
「で、あれはどう?あるの?」
 ミチ子にそう聞かれるとマサ江は困った様な顔をして、
「うぅん、ないの、何時もなら明日でお終いなんだけど。」
 と言って、ほっぺたがカアツとほてるのを覚えた。
   き―み―と、かたろうオ――、ま―ど―に――
   ポ―プラ―は晴れや―かに、ゆらぐウ―― 
 原料部の窓で、ジヤズの加代(そうあだ名されて居た)が金魚のような口を開けて唄って居たが、二人を見つけると、
「ヨオー似合ったっぞうー、こーいーびーと――。」
 と叫んだので二三人が加代子のそばから首をつん出した。
「ひとの恋路に邪魔する奴ァぶたに喰はれてエー死んでしまへ――。」
 そう言ってミチ子は大声で「ワハ、ハ、ハ、ハ」と笑った。
「イーイダァ」、と「あかんべー」して「ジヤズの加代」はぴよこんと顔をすっこめた。
   わかい はァる、やさし はァる、恋のオうーた――
   くうろい、ひ、と、み、にはァ
   よオ、ろオ、こオ、びイ――、…… 
 あとには唄声だけが流れて居た。
「マサちやん、大井さんに話して休んだらどう?悪くなったら大変よ。」
「だけど、……」
「そうね、此の頃は一日休んでも暮しにピンと来るんだから。病気ほど恐ろしいものないわ、……」
「それに此の月は、成績がとっても悪いの、まだ十五六匹よ。」
「それア此の頃は、あんただけじやないの、糸が悪いのよ。みんなホケて織れやしないわ。人絹なんかと来たらまるでね、……。それでッて追い廻すんだから、誰だって体アこはすのは当り前よ。いくら契約の期限に遅れると損するからって、その責任を女工に負わせるなんてしどいわ、ね、そう思はない?」
 その一言ひとことがマサ江の心にピンと来た。
 体の奥の奥にあった熱い固りが急に体中に一っぱいに拡がって行くような気がした。血の気のあせた唇が、かすかにふるえたのが見えた。
「そう思ふわ。」
 言ってしまうとマサ江は、言ってはならないことを口にした様に周囲をキョトキョトながめ廻すと、うつむいて無精にクローバの葉をちぎっては捨てた。
「いいんだわ、マサちやん。こんな話外の人に聞かれない方がね。」
 マサ江は、此の人は何処迄いい人だろう。こんな人が女工の中に居るなんて、と不思議にも思へた。
 一週間程前、始めて工場の帰りに一緒になった時からすぐに、とても好きになったのだが、今は自分を支へて居る大きな力にさへ思えた。
「マサちやん、ほんとに無理しないでね。もし困ったらわたし、あなたの分も働いたげるからね。」
「えぇ、ありがとう。わたし大丈夫よ。」
 マサ江の胸は熱いものにグッとつまつた。二人は立ち上つて、パチパチとおしりのちりを払った。
(前半の部、終わり。次回は後半の部です)

2009年1月29日木曜日

「発禁」処分について

この画像は戯曲「遺族」が発表された雑誌「鍬と銃」です。国会図書館所蔵「発禁図書目録ー1945年以前ー」(この存在はほとんど知られていない)とか「旧函架図書発禁本(特500、501番台)資料目録」で丹念に調べて、ラッキーにも、この雑誌は見つけられました。「ラッキーにも」と表現した理由は、発禁本は旧内務省警保局(発禁権限を持っていたところ。ただし、日米開戦以降には実質的に警視庁特高課が握っていました)で正規に処分されたものは警保局と帝国図書館つまり現国会図書館に保存されることになっていたのですが、これとは別に特高には正規の分と闇で押収した分もありましたし警保局自体に図書館送りをしていない記載もしてあったかどうかわからない発禁本が山ほどあったあったわけですし、その警保局の物は進駐軍が全部米国議会図書館に接収してしまっていたのですから、まさに氷山の一角からの発見だったのです。戦前の暗黒時代に消された文学などの貴重な財産を知るために米国議会図書館に消えた発禁本の完全な返却が望まれます。
 上に上げた写真をよく見てみてください。右側は表紙です。写真が下手で不鮮明ですが、中央上方の角印は帝国図書館蔵と読めます。右上端には函の欄に安寧とあり号は825で永久保存としています。また、その左には禁安1-564(おそらく発禁理由が安寧違反で、その番号を記載してあるのでしょう、抹消の線引きが残っています)と特500-353(戦後に整理した旧函架図書番号)が見えます。左側は見開きですがここにインク書きで8.8.3 禁止とあります。これは昭和8年8月3日に禁止決定を示したものでしょう。この「鍬と銃」は昭和8年7月30日印刷で8月5日発行ですので、実に素早い決定と言えますし表紙を見ただけでの決定だっとも言えます。こういう形で闇に消えたプロレタリア文学、経済学、社会科学などの貴重な書物が無数にあったのだ、と考えると残念でなりません。憲法9条を守ることがいかに大切であるか、「発禁」の歴史からも明らかであると考えますが、みなさん如何ですか。
 
 ところで、「遺族」と「黙祷(2)」を読んでの感想や疑問などなんでもどうぞお寄せください。
 次回からは小説「女工」を2回に分けて発表します。じっくりとお読みください。

2009年1月28日水曜日

戯曲作品「遺族」-その3

             第三景 前景に同じく、お兼の家

     お兼、豆の埃りを撰り分けながら独言をつぶやいて居る。
お兼 あーア、いやなこった。まるで蜂の巣みてえに寄ってたかって持って行き
   くさる。加賀の旦那ァ役 場とぐるンなって、作得の、とどこった分を天引し
   やがるし、おまけに、役場の上納まで天引だ。ケッ (豆を投げ出して)まる
   で泥棒でねえか・・・・・・おらアの家に、田ア一枚殖えるでねえ、馬ァ一匹買
   え るでねえ、勝ぅ草葉の影で泣いてるベえ、おらア済まねえ、俺ア済まね
   えだ。
     その時洋服の男入って来る。
洋服の男 婆ばア居るか?
お兼 居るど。
洋服の男 婆ばア勝っあん、亡くなつたてでえねえか、気の毒な事したな。
お兼 ほんに勝う居て呉れたらとそう思うと俺ア居ても立っても居られねえだ。
洋服の男 そんでも、勝っあんは親孝行もんだ、死んでも金どっさり残して
   呉れたもんな。
お兼 それがお前え・・・・・・
洋服の男 (その言葉をさえ切って)イヤ他でもねえが、ほれ、勝っあん先々
   落した俺ンとこの無尽な。
     (註:「無尽」は「頼母子講」と同じで互助的な金融会社もしくは組合。
        利用者・組合員はその掛 け金を上回って高利子で融通しても
        らう。古くから戦前まであった市民金融の一種)
お兼 (驚いて)ぇえ。
洋服の男 何、ちっとだけどな、あいつの掛金とどこってるで、会社の方では
   近いうち競賣するって云ってたから、そんな事しねえで、おだやかに決
   めたらいいと、こう思って、ちょっと教えに来たんだがな。
お兼 一体どの位えだし。
洋服の男 (書類をめくりながら)うん、ちっとだ。五百円に落したで、百八十
   円ばかしの遅れだ、そればかしで、保証した源助さんとこも迷惑するん
   だから、何とか考えて置いて呉れ、な。叉近いうち来る で。(そそくさと
   去る)
お兼 おーア、何んてこった、勝ぅ残した金、みんな、みんな持って行かれる
   だ。こんではまるで、勝ぅ借金取りの為めに死んだ様なもんでねえか、
   勝ぅ体みんな野郎共に、しやぶられる様なもンでねえか・・・・・・おらア悪
   りいだ、おらア考え足りなかっただ。(うなだれて考え込む)
     好江が入って来る。
好江 おッ母ア少し早えけんど、息切れすンで上って来ただ。オヤ。おッ母ア
   何考えてるだ。
お兼 ・・・・・・
好江 叉、借金取りけ?
お兼 (うなづく。)
好江 おッ母ア払ってやったんであんめえな?
お兼 (首を横に振る)好ッ、おッ母ア、おッ母ア始めて眼え覚めただ。みん
   なおッ母ア悪りいだ、勝う泣いてるべえ、めくされ金いらなかっただ。勝
   ぅ帰えして貰いてえだ。
好江 おッ母ア、解かっただか、おらア毎日田ン甫で泣いたど、どうしておッ
   母ア目腐れ金に気狂え見
   てに喜んでンだろ、勝兄イは、なんぼ口惜しんだろ、そう思うと涙ア出
   ただ。
お兼 許して呉ンろ、な好ッ、おッ母ア考え足りなかつただ。あぁ恥しいこん
   だ。仁吉や源助や作造に顔向けなンねえだ。・・・・・・ほんにおらア、目、
   目腐れ・・・・・・
好江 おッ母ア、何ンでもねえだ。仁吉さ云ってたど、おッ母ア悪りいでねえ、
   金呉れてだまくらかした奴悪りいだってな、それに、おッ母アみてえに、
   だまくらかされてるもンが、なんぼあッがしンねえ。そんでも今にきっと
   眼覚る時来るだ。肥料(註:こえ)高くなんのも、役場の上納高くなんの
   も、みんな兄ンちや殺した戦のためだって云ってたぞ。
お兼 ほうが、おら良く解ンねえけンど、今アなって見れば、勝う戦にやるで
   なかった。これから俺アどう して暮すだ、勝ぅやるでなかった。
好江 おッ母ア心配えいらねえだ、村の寄り合いでおらア家の作得をただに
   して、取った田ア返えせって加賀に談判すること相談してるだ。
お兼 ほうが、有難えこんだ。俺ア組合あんでほんに気イ強いだ、俺ア、勝ぅ
   仇き取るつもりで稼ぐべえ、な好ッ。
好江 ほうだ、おッ母ア、俺ア達仇き取るこんだ、どんな、ど偉えこんも、みん
   なア固まれば、きっと出来るって、仁吉の兄ンちや云ってただ。(思い出
   して)おッ母ア、すまねえけんど、まんまの支度くしてくんろ。な、俺ア、
   煙り吸うと喉苦しくなるだ。其の代り豆俺アいるべえ。
お兼 よし、よし、お前えほんに体ア大丈夫け、無理すんでねえど。(立ち上る)
好江 ん、大した事アねえだ、心配えすんでねえ。
お兼 ほんならええけんど、ほんに気いつけれや(勝手に去る)
     好江、豆をいり始める。
好江 (ソロ)俺ア、ほんに体ア悪いかも知んねえ、田アぶちながら、息がハア
   ハア切れる。どうしたンだ ろ?・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほうだ、機場に居た時
   も時々目めいがしてぶッ倒れンでねえかと思った。ムンムンした、ごみン
   中で、毎日倒れるもンが出た。そのたんび、満州の兵隊思えって頭から
   水ぶッかけられた。きっと此の病気、機場から持って来たに違えねえ・・・
   ・・・・・・・・・・。 けんど、けんど俺ア病気に負けるもんか、おッ母ア眼え覚め
   て呉れた、おらア寄り合へだ、こんなうれしいことあるもんか、そんで病気
   に負けてたまるけ・・・・・・(後に向って)おッ母ア、今日来た借金とり何処
   だア。
お兼の声 町の無尽会社だア、百八十円におくれだとよ、
好江 ほうが、俺ア寄り合いで話すべえ、みんなで相談すべえなおッ母ア。
お兼の声 ほうしてけれ!お好ッ。
好江 そうすべえ。
お兼の声 村田のみよ帰えってるで云うでねえが。
好江 うん、帰ってるだ。みよさや、俺アほんに間違った事オしたア云ってるど。
お兼の声 ほうが、ほうが・・・・・・・・・・・・
好江(ソロ) 寄り合へに来るもンは十人になった。爺いも居る。若けえもンも
   居る。娘ッ子は俺アと、みよさやと、たった二人だけんど、今に三人にし
   て見せる。・・・・・・・・・・・・仁吉の兄ンさやは色ンな事話して呉れる。兄ンち
   や殺した戦さのこと、おらアの暮らしのこと、新聞に難しい字で書いてあ
   るいろんな事、そいから、ソ、ソヴァ(註:ソフォーズ=国営農場のこと)忘
   れちまった、何だっけろ、ほうだ、今のロシヤの話して呉れる。此の前は、
   自動車みてえなもン動してる百姓の娘の写真見せて呉れた。その顔は、
   とってもうれしそうだった。俺アもこンげえ、なりてなアて、云ったら、仁吉
   の兄ンちや「寄り合へ大きくして、地主の加賀や、戦さけしかける金持ち
   と闘うこんだ、ほしだら、みんなごげえなれっぞ」って眞面目くさった顔で
   云ってた。そんとき、俺ア何だか胸が焼ける様な気イし た。・・・・・・・・・・・
お兼の声 好ッ、俺アちょっくら畠さ行って、夏菜とって来るどオー。
好江 ウン・・・・・・(ソロ)今度、俺ア達若えもんで芝居やっことに決めた。俺ア
   達の兄ンちや奪ったり、肥料高くする戦さ、反対だってう芝居だ、おら、
   仁吉兄ンちやの嫁の役だ、恥しいこんだ、ほんでも村のもンの眼え覚すた
   めだ、ほんなこと云ってられねえ。・・・・・・・・・・ほンだ、機場のみねちやと
   ゆきちやに手紙書くべえ「機場さも寄り合へこさえろ」ッて・・・・・・、だけん
   ど、監督の奴封切って見ッかもシンねえ・・・・・・。
お兼の声 好イッ、仁吉兄ンちや来たど。
好江 あ、迎へに来ただ、芝居のケイコだっけ、(立ち上り上手の方に)今、い
   くどオー、まんまかっこむからまっててけろオなアー。

                                  一九三三・六・三〇
                       『鍬と銃』プロレタリア戯曲叢書第五編
                              (昭和八年八月五日発表)

2009年1月22日木曜日

戯曲作品「遺族」-その2

       第二景 お兼の家

     殺風景な部屋の片隅の箱に蝋燭と線香が立って居る。其前でお兼が
     御詠歌を低い声で唄ッて居る。箱の上には、電報が乗って居る。囲炉
     裏を囲んで四五人の男が思案顔に話して居 る。(その中に源助、作造
     も混って居る。御詠歌は、其の地方に適切な歌詞を選ぶべきだ)

宗吉 こねえだ、発ったと思ふとったら、余ンまり早えこんだ。
謹六 おかねさも、ええ息子持って幸せだ云うてたが、気の毒なこんだ、それア
   国の為め云うけんどな。
源助 ほんに、不思議なくれえ早えこんだ、好江も返えさねえ中に、こんな事な
   ってしまおうとは、誰が、誰が考へつくこんだ。
謹六 好江さの方、うまく行っただか?
作造 それがよ、旅費工面つかねえだで、手紙で云ってやったけんど、ラチ明か
   ねえで、やっとこさ、やりくりして仁吉に行って貰らっただ、ほしたら、うまえ
   具合に話決って、昨日発つて来ただから今日にも来ンべえ。
宗吉 それァ、まァ良かっただ。それにしても、好江さ驚くべえ、たった一人兄に
   亡くして、あの娘も可哀想なもんだ。
作造 好江も驚くべえ、仁吉帰ったら、なんちて云うだろう。あれの発つた日目が
   けて、加賀の奴ア田に水引いてしまうし、今日当り田植始めてるざまでね
   えか、それえ指くわえて見てねえなんねえとは、勝ぅにしたとこで、なんぼ
   口惜しこんだろ。
謹六 俺ァ真実のこと云うげんど、始めは組合のものばっかりだろ思うでただ。
   村田の爺ぃも、仁左ェ 門も、音も、みんなそう云ってるだ、こげえなことなん
   だら、組合え抜けねえで、固ってれば、えかったってな、俺らァも、こうなっ
   て見るど、組合の悪口ただいた事後悔されるだ。・・・・・・けんど、今に な
   ってはぐちだもんな。
源助 何ぐちだもんだ、な作さ、俺ァ達、こねえだも話してただ。村のもんはみ
   んな、組合を眼の仇きしてるけど、今に目覚めるべえってな。
作造 ほうだともよ、これからだって遅くはねえど、仁吉帰ったら、寄合い開い
   で相談すべえ、なンも、組合だ云うて、やかましい名前つけることもいらね
   えだ。 な。
謹六 俺ァがらは、そげなこと云はれた義理でもねえが、そうして貰ろうたら、
   どげに助かるべえ。
宗吉 俺ァも謹六さ云う通りだで、ほんに、受け持や加賀の奴に、だまされて
   ただ。
茂太 (立ち上がりながら)俺ァ馬ァ放して来たで、ちょっくら見てくべえ。あと
   で、叉くるンで。(去る)
宗吉 (去った後を見やりながら)ケッ、寄合いのことでも加賀に告げて、作
   得まけて貰ったらいいだらッ(皆の方に向き直って)茂太の奴加賀に手
   伝え行ってるだ。
作造 ほうが、助平根生出しやがって。
謹六 恐しいこんだ。昨年の争議で二十日入つた茂太が、あんななんだか
   らな。
源助 ほんにさ、そんで、よくも大きい面してられるもんだ。
仁吉 (好江を連れて、せき込んで入って来る。家の中を見て、ギョッとす
   る。)
作造 仁吉か。
仁吉 い、一体どうしただ。
源助 それが、お前え・・・・・・
仁吉 田ン甫には知ンねえもんが入り込んでるし、家へ来て見れば、
   勝ぅ・・・・
     皆無言でうなだれる。好江は母の側に近よる。
好江 おっ母ア、帰えっただ。
お兼 (此の時始めて声を止めて振り向き)おお好ッ、よく帰っただ、よく
   帰っただ。勝ぅ見イ、戦さで死 んだだ。名誉の戦死遂げただ。これ見
   い。(電報を見せる。)
好江 (震える手で受け取って、おろおろ声で読む)二十三日午前四時、
   長域の激戦にて齊藤勝男君名譽の戦死を遂ぐ。(読み終わると、わッ
   と泣きくづれる。)
お兼 好ッ、何泣くだ。兄イ兄イは名譽の戦死遂げただ、何泣くだ。勝ぅは
   親孝行もンだぞ、金、うんとこさ貰えるだ。好ッせ、千円の金貰れえる
   だど。
     皆はあっけに取られる。
お兼 おッ母ァ金持なっど、好ッ、せ、千円だど、泣くンでねえだ、何悲しい
   だ。こげえ、め、芽出度えごどあるもんでねえに。
仁吉 (堪り兼ねて)おッ母ァ何云うだ、そ、そんな、めくされ金と勝ぅ命取
   り換えられるもンでねえ、おッ母ァ・・・・・・
お兼 (ヒステリックに)めくされ金だッ、このろくでなし、どこめくされ金だ。
   (好江に向って)好ッ、笑えや、おッ母ァ地主の加賀にも、信用組合に
   も、なんもかんも、みんな払ってやるだ。借金みんな返すだ。な好ッ、
   おッ母ァ田ア買って、お前えに赤え着物のこさえで、むこ貰らっでや
   るぞ、な。
好江 おッ母ァ、おら、赤けえ着物欲しくねえ、なんも欲しくねえだ、兄ン
   ちや、 兄ンちやん。
お兼 何いうだ、千円いらねってが、千円いらねってが、こ、このごくつ
   ぶしッ。(お兼、蝋燭台を振り上げる)
     皆「アッ」と立ちかける。仁吉、お兼の手から、蝋燭台を取りながら、
仁吉 おッ母ァ、気イ靜めて呉ンろ、気イ静めて呉ンろ。
        -暗転- 

2009年1月17日土曜日

戯曲作品「遺族」-その1

池田勇作がペンネーム牧本進で1933年6月発表したこの作品は、掲載した雑誌「プロレタリア戯曲叢書・第五輯 鍬と銃 -★八月一日のための反戦小脚本集」(コップ日本プロレタリア演劇同盟レパアトリイ委員会・編、1933.7.20発行)が内務省警保局と特高によって発行と同時に「発禁」(註:発行・発売禁止)処分され闇の中に閉じ込められていましたが戦後1988年7月発禁図書の山の中から発掘され「日本プロレタリア文学集・37」(新日本出版)に作者来歴不詳のまま掲載され世に出てきたものです。その後2007年3月13日(註:3.13は作者の命日)に「魂の道標へー池田勇作と郁の軌跡」で作者の本名、その生涯が明らかにされたのです。底本の「鍬と銃」記載の解説によれば「八・一国際反戦デーを迎える世界プロレタリアート農民諸君へ贈られた私たちの心からなる革命的挨拶」として全国に募集し、それに応じた約十五編の内で「遺族」は「地方から応募された中で最も優れていた」とあります。そして、先述の「日本プロレタリア文学集・37」には「ドラマは、一方では、息子の勝を赤紙にとられて戦死させた母お兼の変化をとらえつつ、他方では、農民たちが組合に結集して、闘いに立ち上がる変化を描いている」とあります。
先に掲載の作品「黙祷(二)」は小林多喜二の虐殺(2月20日)の労農祭の日に特高によって予防拘禁された時に抱いた決意を表明したものですが、この「遺族」は、まさに、「ーだが同志小林よ! 俺たちは必ずこの東北の一隅に君の鉄の意志を継ぐぞ!」、を実践する珠玉の作品であった、と思っています。この作品は三景構成ですので、みなさんからじっくりとご鑑賞願えるように、一景づつ掲載していきます。どうぞよろしく。

                    遺 族 三景            牧本 進

時 一九三三年五月中旬
所 或る農村
人 母 お兼(註:おかね) 六十近い婆
  娘 好江 十九歳
仁吉 二十四歳
源助 五十二歳
作造 四十九歳
宗吉 四十五歳
謹六 四十二歳
茂太 三十二歳
洋服の男 二十七歳
第一景 作造の家
第二景 お兼の家
第三景 お兼の家

     第一景 作造の家

    炉を囲んで作造と源が話して居る。外は夕方のざわめきに包まれて居
    る。
源助 ・・・・・・あの氣丈なお兼婆アも、勝発ってしまうと氣イ抜けた様になった
  には驚いたもんだ。
作造 赤(註:徴兵令の赤紙)来た時にはびっくりして、勝発つまでは何だ彼
  だで気も立ってたろが、行かれて見ると大黒柱だもんな。
源助 地主の加賀で、祝儀だちンで米一俵よこしたちゆうでねえが?
作造 それがよ、お前え、あたりのもンは組合だちて、なんぼ立っていた所で
  貰って見れば有難えだろ って影口ついだで、勝の奴ア怒って婆ア連れて
  加賀に返へしに行ったちゆう話だで。
源助 ふゝゝゝ勝も未だ若えからのオ。それにしても村の者は組合、組合って
  まるで眼の仇きしてるでねえが。ほんに困ったもんだ。受持ちの旦那で、
  組合へ入るど、ろぐなことをどって、ふれて歩くちゆ う話しだし。
作造 ほんに困るどきは組合で、風の吹きよが変るどこんだは眼の仇きだ、
  そんでも今に眼さめる時くんべえ、今年あたり肥料(註:コエ)入れねえも
  んがおらア村に五六人に出たからな、今年は石灰でもまいて間に合うだ
  ろが来年なったらどうすンだで。
源助 お上では自力更生のなんのつて、金肥入れねえで間に合はせろちた
  処で、作悪りい事知って、誰が、糞汲む暇つぶされるもんでねえ、そげな
  事云う位えなら豆粕でも硫 安でも馬鹿気た値つけんといゝだ。
作造 ほうだともよ、満州国出来た云うから、うんとこさう安うなるべえ思うと
  ったらこの態だ。これがお前長びいてみろ、どえれえこんになるど、あろ
  うだって来年の肥どうするだ思うと、ほんに咽しめられる思いだ、黙って
  居だら百姓ァ飢え死にだもんな。
源助 ほんにさ、俺アもそれ考る、氣狂えになりてえ位えだけんど、組合ち
  ゆうもんがなんぼなんでもあるうちは、おらア希望(註:ノゾミ)断たねえだ。
作造 仁吉、おそえでねえか―ほだほだ、あらね(註:庄内地方のあられ菓
  子)でもいるべえ。(立ち上 って去る)
   仁吉入って来る。
仁吉 おそうなってすまねえ。
源助 おう仁吉さ、待ってただ。
   作造、あらねいりと小鉢を持って戻って来る。
作造 どうしただろって話した処だ。
仁吉 ほんまにすまねえだ、俺アおやじ死なれたで、仕末おくれから今日肥
  料入れてしまおうと思ってな。
源助 ほんに仁吉はせいが出んのう、若えに似あわず感心なもんだ。
作造 いゝ嫁早よう貰はにやサ何時迄一人で置かれるもんかよ。(あらねを
  いり始める)
仁吉 ハゝゝゝ父っつあん、嫁え貰ったら嬶アの干乾し出来ッぞオー。
  源助と作造声を揃へて笑うが、その言葉が冗談でない事に気づくと眞
  顔に返って行く。
源助 仁吉さ、おめえの処で肥料どの位え入れただ。
仁吉 肥料け、俺ア田は猫のひてえ(額)位えだけんど、五円(註:米価換算
  では約6千円)当りやっとこさよ、一俵なんて及ばねえこんだ。
作造 ほうさ、おれん処じや四円当りにおっつかめえよ、おらが村全体にし
  た処で五円当り入れるとこ ろたんとあんめえ。
仁吉 村田みよな、若勢の三郎と、おやじ工面した肥料買う米かつツらって
  かけ落しだど、おやじ気狂え見てえに喚えでるってよ。
源助 それァ ほんとけ。
仁吉 うん、来がけに勝うのおっ母アに面ア出したら云っつてただ。
作造 (あらねいりを投げ出して)なんてごった、三郎も三郎だがみよもみよ
  だ。おやじほんに気狂えなるべえ。
源助 親不孝野郎だ、あの面して、男の味知っただか、ヘッ、おやじ殺して
  も足りながんべ。
仁吉 父っつあん、おらアほん考へさせられただ、馳け落ちだって、ほんに
  馬鹿なこったけんどもよ、みよばっかり攻められねえこんだ。
作造 ほうだ、三郎悪りいだ、あの野郎うめえこと云ってだましただ、あの
  野郎・・・・・・
仁吉 父っつあん、三郎ばっかりでもねえだよ、俺アこんなこと云うと若え
  者に味方だ云うか知んねえけんど、若けもんにして見れば、何一つ楽
  しみなるこどねえだ、見てえもの見られるわけでねえ、買いでえ物買は
  れるでねえ。ほんだから、間違った考え起すだ。
源助 それも、そうだけんど、どうになんねえこんでねえかよ、悪りい時は
  悪りいもんだ、息子取られるし、娘馳け落ちだ。
仁吉 父っつあん、それは、どうになんねえこんだかも分かんねえけんど、
  組合でも強くなって、若えもん集めて、間違はねえ智恵つけたら、なン
  ぼでも助かんべえ思うだ。
作造 ほうだ、仁吉さ云うこんに間違えねえだ、なんちたとこで組合え大き
  くするこんだ。
源助 おらァ良く分かんねえけんど、組合え大きくするこんには不服ねえだ。
  俺ア思い出すだ。昨年の争議の前え迄あ、若けえもんも、町に遊びせ
  えあまり行かなかっただ。余り遊ぶと仲間アはずされる云うてな。
作造 ほうよ、おらァも昨年の事思うと、裏切った奴等のこと思うと、意地イ
  なるだ。――おらア生きだとこで長えことはね、喰う為め斗って監獄さ入
  える位え――とな。
源助 ほうだ、裏切った奴等、そ、それ恐しかゝっただ、な、ほんに勝う等の
  こと思うたら、そげな恥知らず出来るもんでねえだ。
仁吉 お父う達年取った者が、そう云う気だもん、俺ア達若えもんがどうし
  て黙って居られるべえ。勝うも安心して働かれると云うもんだ、(追憶す
  る様につぶやく)・・・・・・あの日、町の停車場の便所ン処で云ってただ。
  俺ア満州さ行ったら、兵隊の中さ、組合こさへで、戦さやめさせて見せ
  るど、村のことは、たのんだでッてな、今頃は勝うもきっと・・・・・・(言葉
  がつまる。)
   瞬時の間沈黙がつづく。
仁吉 (思い出した様に)おゝえれえ暇取っただ。勝うのおツ母ア話では、
  好坊とこ返えした方えゝ云うてただ。
作造 俺ァも、そう考えただ、雇い掛けるって見た所で、婆ァ人置かれる
  もんでねえからな。
仁吉 それァそうだけんど、おめん、好江返すにァ金いるべえ。
作造 成程な。
仁吉 其処ン処を、会社に願って、何とか年賦にでもシて貰ふより他に
  仕様があんめえよ。
作造 うん、ほうだ、其処はお前え、唯事じやねえ戦さに取られたんだか
  ら無理とは云はめえよ。
源助 たゞでも返して貰いてえだが、会社にしたとこで、戦さのためだ云
  うた処で、ましやくに合はねえ事はシンめえしな。
作造 そげなこと誰するもんでねえ、とにかく仁吉さ行って話つけて貰う
  より道はねえだ。
源助 御苦労だけんど、俺ァ達は会社のもんになんぞとは話もろくに出
  来ねえでな。
仁吉 俺ァ行かねばなんめえ、年寄りに苦労かけられるもんでねえ、ほ
  んで旅費はどうすべえ。
   その時戸口を押し開けて、お兼が飛び込んでくる。三人は驚いて立
   ち上る。
お兼 た、田ン甫取りに来ただ。(入口を指差す)
仁吉 おッ母ア、田甫取りに来だど?
お兼 うん、支配人の大井来ただ、勝う居なくなったから、千刈(註:一町
  歩ー約1haのこと)は多すぎるがら半分よこせ云うだ。
仁吉 ほうが、畜生、弱味につけ込んで、おッ母アそいで返事しただか?
お兼 しねえだ、誰が誰が田アやられるもンでねえ。
作造 婆ァそんで大井どう云つただ。
お兼 源助居るがア、聞いだがら、しんねえ云ったら考えて置け云って出
  て居っただ、そんでおらア走 って来たゞ。
源助 婆ァ、ほんとけ。
   お兼うなずく。
作造 おらがァとこへも来ンべえ。
仁吉 とうとうやる気だな。
作造 俺ァ達もっと強けれアな。
源助 そ、それァ、卑怯と云うもんだ。
お兼 勝う、勝さへ居たら。
三人 畜生ッ。
-暗轉- 
           (第一景終わり。次回は第二景です。ご期待ください)

2009年1月14日水曜日

作品の表記について

本ブログに収録する池田勇作の作品はすべて、原作を現代かなづかいにあらため、漢字は常用漢字に変えて読みやすくしました。また、原作で×で表記している伏字はその都度推定して、(註:何)と書き加えてあります。底本通りお読みになりたい方は「魂の道標へーー池田勇作と郁の軌跡」をご覧ください。発表済み作品「黙祷(2)」も今回以上のように手を加えました。読みにくいと思われた方もう一度ご覧くださいますようにお願いします。

2009年1月11日日曜日

池田勇作の妻ー郁についてーその2

郁さんは大正2年(勇作と同年)に鶴岡に近い余目(あまるめと読みます。現庄内町)の大地主阿部善兵衛(十代目、清治)の長女として生まれ、何不自由なく育てられ、小学校では郡(東田川郡)に一人の成績優秀者に与えれれる郡賞をもらうほどの子どもだったそうです。鶴岡高等女学校(現鶴岡北高)を出て、昭和5年東京に向かい日本女子大学校国文学部に入り全寮制の下で新泉寮で過ごし、この間に社会科学研究会に接触したと考えられています。卒業論文「宗門人別改め制度の沿革」を提出して卒業後は伯母後藤好野の落合の家で世話になりながら就職した紀伊国屋書店洋書部に勤務していました。洋書部にはよく宮本百合子が来ていて郁さんは外国文学の新刊をあれこれお世話していたといいます。池田勇作との接点は不明ですが、時期的には昭和12年の早い頃と考えられますが、その辺りに詳しいはずの伯母後藤好野さんがお亡くなりになった今となっては全く手がかりも無いとしか云いようがありません。昭和15年6月25日に夫勇作と共に特高に治安維持法違反容疑で捕まり半年後の12月28日に釈放されますが、当時としては本当に稀なことですが、紀伊国屋書店に復職して勇作の釈放を待ちます。紀伊国屋の社長田辺茂一はそういうことも出来た人物だったようです。勇作には、実は先妻みつとの間に俊一という昭和9年生まれの子どもがいて、彼の本家筋の鶴岡の家で育てられていたのですが、郁さんはこの子のことを大変気にかけていて、昭和16年の春には入学のお祝いに、勇作は取り調べで身動きならない時でしたが、ひとり鶴岡に行き、入学を迎えるこの子に新しいランドセル、心を込めて編んだセーター、そして「ジャックと豆の木」の絵本を届けています。俊一は結婚するまでこの優しい郁さんを本当の母親と信じていたそうです。昭和19年3月13日夫勇作は豊多磨刑務所で力尽き獄死しますが、その遺骨を抱いて俊一の居る池田の本家に行きそこでの内輪の葬式で俊一に父の死を教え、本家の当主勇吉に俊一が長じたらと勇作の羽織袴(昭和14年に挙げた南大塚の天祖神社での結婚式で使った晴れ着。俊一は結婚のときこれを着て式に臨んでいます)を託し、自らがその時着た留袖は何も金銭的に礼が出来ない代わりにと差し出して帰ったといいます。愛する夫を亡くした郁さんはその足で余目の実家に戻り、失意の内に昭和20年8月12日結核で亡くなりました。勇作が獄死した時郁さんは自らの死を受けとめてもいたのでしょう。池田勇作も豊多磨刑務所に下獄(有罪が確定し監獄に収監されることを言います)する時、すでに重い肺結核でしたので、獄死を予感して郁と俊一に遺言をしたため、さらにその心境を辞世の短歌を短冊に記しています。郁さんは、覚悟していた夫の獄死に直面した昭和19年3月13日夫との別れを悲しみつつ、でも愛し続けて夫の傍から離れない魂の声を短歌にして残しています。勇作の辞世の短歌「秋蕭條(あきしょうじょう) 散る草の葉尓(ちるくさのはに) 玉だれの(たまだれの) み奈わさやけ(みなわさやけく) 光りけるかも(ひかりけるかも)」に読者の方は何を感じ受けとめていただけるでしょうか。そして郁さんの惜別の短歌「いく千万里(いくせんまんり) さかりゆくとも 我が命(わがいのち) 君の心は(きみのこころは) 一なるものを(ひとつなるものを)」に愛の絆を知らしめてくれるのではないでしょうか。二人は今も手をしっかり繋ぎあって鶴岡の総穏寺で目を見つめ合っていることでしょう。
 次回は池田勇作の作品の戯曲の一つ「遺族」(三景)を、数回に分けてですが、紹介しようと思います。

2009年1月7日水曜日

池田勇作の妻ー郁についてーその1

池田郁は夫勇作と共に壊滅状態(昭和10年3月の弾圧で組織的機能停止)の日本共産党を再建しようと昭和12年末から活動をしていました。しかし、同じ仲間の一人、伊藤律からの情報で昭和15年6月25日特高に検挙されてしまいました。郁さんはその年末まで、恐らく残虐な拷問が行われるなかで、特高の取調べを受けた上、不起訴処分で釈放されます。このとき彼女は身体を弱めてしまいます。釈放後、元の勤め先の紀伊国屋書店洋書部に復職し夫の釈放を待ちますが勇作は大審院で治安維持法違反有罪(昭和18年6月22日;懲役2年6月)が確定し、重篤な肺結核でありながら豊多磨刑務所に収監され、昭和19年3月13日喀血獄死してしまいます。失意と結核という病気を連れて、故郷余目(山形県東田川郡、現庄内町)に戻りますが、敗戦の3日前昭和20年8月12日父母の下でさびしく死んでいったのです。この郁さんの生い立ちについては次回、わかっていることを紹介します。ただ、本当に残念なことなのですが、彼女が日本共産党再建運動でどのような活動をしたのかについてはわかっていません。また、彼女の文芸的才能は短歌の世界にあったと、夫の獄死に直面したときに詠んだ惜別の歌(いづれ紹介します)も想像されるのですが、作品集や日記が見つけられていません。どなたか情報があればお寄せください。

2009年1月4日日曜日

訂正があります。ペンネームの表記がちがっていました。

「黙祷(2)」は池田勇作の作品ですがここで使ったペンネームは「浮田新一郎」でした。牧本進というペンネームは今後にご紹介するいくつかの作品で使っていますが、この「浮田新一郎」はこの作品だけに用いています。特高による弾圧(発禁処分)を恐れたのではないかと考えています。ついでですので池田勇作が用いたペンネームには「池田祐策」「牧本進」「浮田新一郎」「生田修」「旗三郎」「最上駿作」があることをご紹介しておきます。以上、お詫びして訂正いたします。

2009年1月3日土曜日

日本プロレタリア作家同盟山形支部準備会機関紙「荘内の旗」

前回紹介の「黙祷(2)」は「荘内の旗」に発表したものでした。そこで「荘内の旗」についてご紹介しましょう。この雑誌は牧本進というペンネームを持つ池田勇作が昭和6年鶴岡に立ち上げた「日本プロレタリア作家同盟山形支部準備会」の機関紙なのです。昭和8年3月15日に第一巻第一号が創刊されました。しかし、この創刊号は特高(特別高等警察官のこと)によって持ち去られてしまいました。多喜二のための労農葬を鶴岡でさせないために池田勇作を拘留したついでに。第二号は池田勇作が3月15日の拘置から釈放された(何日に釈放されたかは不明)後4月半頃に発行されたはずです。そこには浮田新一郎作「黙祷(1)」が載っていたはずです。でも、この号は見つかっていません。いくら探しても鶴岡の図書館の歴史資料にも国会図書館にもないのです。たった一冊の第三号が見つかった泉流寺(斉藤秀一:池田勇作を信頼する僧侶で言語学者・エスペランティストで治安維持法犠牲者)にもありません。そんな分けで「荘内の旗」は第一巻第三号(昭和8年5,6月合併号)のみが、しかもこの一冊だけが、今に、池田勇作の魂を伝えてくれているのです。幻となった「荘内の旗」第二号に投稿されたペンネーム浮田新一郎作「黙祷(1)」の内容を思い浮かべながら「黙祷(2)」をじっくりとお読みいただけると幸いです。
 次回には池田勇作の奥さん、池田郁についてご紹介させていただきます。